人生を決めた「小学校6年生のときの運動会」 ニッポン放送アナウンサー・飯田浩司
飯田)そのときに運動会の放送を担当して、「さあ、外から赤が来た! 真ん中から青!」というように帽子の色で実況したら、親御さんからものすごくウケたのですよ。「これは面白い仕事だ」と思いました。ただ、担任の先生からは「私の生徒は馬じゃないのよ」と怒られたのですけれども。それがきっかけですね。 黒木)最初からニュースなのですか? 飯田)入社して半年ぐらいから夕方の番組でお店を回る中継を担当しましたが、中継コーナーが長かったです。朝の番組でリスナーの皆さんに近所の公園などに集まっていただき、じゃんけん大会で「勝った人に5000円差し上げます」というような中継でした。 黒木)そういうところで話術を身につけられたのですね。 飯田)最初は怒られてばかりでした。 黒木)ニュース番組に移ってから、どれくらい経つのですか? 飯田)最初、夕方のニュースが2012年1月にスタートしました。 黒木)10年以上前ですね。 飯田)東日本大震災で福島第一原発の事故が起き、「オピニオンをきちんと聞く番組をつくろう」という機運が高まったころです。最初にプロデューサーから「お前はとにかく話を聞くんだ」と言われました。それまでは、自分の意見を話すのがラジオニュースのスタイルだったのですが、そうではないのだと。とにかく「聞いて、質問だけすればいい」という方針で始まりました。その癖が未だに残っているのかも知れません。