PMSやパニック障害を抱える若者達… 生きづらい彼らにどう接するべきか? 意外と難しい「救おうとしない」こと
世界の見方を変えてみたら、ある“妄想”が広がった?
星や宇宙の話が多く登場するからだろうか。どこにでもありそうな町の小さな会社である栗田科学が、ふいにまったく別の空間に見える瞬間がある。夜の暗闇のなか、ぽっと光が灯る事務所の空間が、まるで宇宙に浮かぶ基地のように見えるのだ。隣り合った机で仕事に向き合う山添と藤沢は、大事なミッションに挑む宇宙飛行士のよう。 そういえば、科学工作玩具や理科実験用機材を扱う栗田科学には、星を見たり宇宙を観測する不思議な機械がたくさんあった。もしかするとここは、正規の軌道からはぐれてしまった宇宙飛行士や技師たちが集まる秘密の宇宙基地なのではないか。そしてある日、二人の有能だが変わり者の若者たちが基地にやってきて、自分たちでも運転できる新しいタイプの宇宙船を製造し始める。それをサポートするのが、やはり過去に傷を抱えた熟練の技師たちで……。 もちろんこれは単なる私の妄想に過ぎない。栗田科学に宇宙船が登場することはない。けれどこの小さな町を舞台にした映画がなぜか壮大な宇宙を舞台にしたSF映画に見えてしまうように、ふと目線を変えてみれば、どこにも行けないと絶望に暮れていた人々が、この世界の遥か遠くへ行けることもある。ふと見あげた視線の先に、眩い光を見つけるように。誰かの声に耳を澄ますうち、思いもよらぬ場所へと連れていかれるように。周囲から見れば小さな変化でも、二人がそれぞれ自分にとって大きな一歩を踏み出していくように。『夜明けのすべて』は、私たちに、この世界のもうひとつの見方を教えてくれる。
孤独な少女が笑うために必要だった「意外なこと」
宇宙基地のような場所で互いを助けあうのが『夜明けのすべて』という映画なら、ニコラ・フィリベール監督のドキュメンタリー『アダマン号に乗って』は、船のなかで共に生きる人々の映画といえる。舞台は、セーヌ川に浮かぶ木造船型のデイケアセンター〈アダマン号〉。ここには日々、精神疾患を抱える人々が訪れ、様々なワークショップやイベントが行われている。人々は自分がしたいと思う芸術活動をしたり、カフェで働いたりしていて、合間には、スタッフと患者とを交えたミーティングが開かれる。見ていても、誰がスタッフで、誰がここに通っている患者なのか、その区別はよくわからない。あえて境界線を曖昧にしたまま、人々がこの船のなかで時間を過ごしお互いをケアしあう様を、カメラはじっと見つめつづける。 ときには、家族との複雑な関係やうまく世間に溶け込めないことへの焦りがカメラの前で語られ、ミーティングで不満が噴出することもある。それでも、彼らは朝になると同じ場所に集まり、夜にはまた家に戻っていく。一緒に何かをすることで彼らが孤独に陥らないようにするのが〈アダマン号〉の役割であり、共に時間を過ごすことがいかに人々の助けになるのか、この映画を見るとよくわかる。 生きづらさを抱えているのは、大人たちだけではない。世界との関わりかたが見つからない子供たちも大勢いる。1980年代、アイルランドの田舎町を舞台にした『コット、はじまりの夏』には、孤独を抱えた少女が少しずつ世界と向き合うまでの過程が、ていねいに描かれる。 大家族のなかで育った9歳のコットは、経済的困窮や両親の不仲ゆえか、いつも寡黙で物思いに沈んでばかりで、家族のなかではぐれ者として扱われている。学校でも思うように言葉を発することができない。やがて両親に新たに赤ん坊が生まれることになり、コットは、夏休みの間だけ遠い親戚のキンセラ夫婦の農場に預けられる。 キンセラ夫婦の家に行っても、コットの表情は硬くこわばったまま。思いを伝える言葉も喉の奥で止まってしまう。キンセラ夫婦は、そんなコットを優しく受け入れ、彼女の感情を少しずつ引き出していく。彼らが行うのは、何も特別なことではない。テーブルで料理の準備をし、一緒にお菓子をつくる。牛舎で掃除をし、ミルクを手に家までの道を歩く。コットの横に並び、共に何かをすることを繰り返すうち、少女の顔には徐々に笑みが浮かぶようになる。 そういえば『夜明けのすべて』でも、藤沢と山添は、いつも横に並び、仕事をしたり、帰り道を一緒に歩いていた。並んで歩くこと。一緒に手を動かすこと。同じ空間に立つこと。共に生きるとは、いつだって単純なくりかえしから生まれる。そうして、抱えていた生きづらさがほんの少しだけ軽くなる。
月永理絵