「弱者男性」論は、なぜ盛り上がるのか?...産業構造の変化と「キラキラ勝ち組」の彼方
<女性やLGBTが社会的な承認を得て地位を向上させていく中で、「没落」していった男性たちの背景について>【藤田直哉(評論家、日本映画大学准教授)】
自分たちの居場所がない、声も無視されている...。産業構造やメディア環境、そして価値観の変化についていけない苦境。 【写真特集】東京に集う単身者という「細胞」たち 気鋭の批評家・藤田直哉の最新刊『現代ネット政治=文化論: AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』(作品社)より「第一部 ネット時代の政治=文化」を一部抜粋。 ◇ ◇ ◇ 2010年代を総じて評するならば、人種差別、民族差別、女性差別などの問題は解決に向かい、素晴らしい成果を挙げ進歩した時代だったと言える。 筆者は、様々な差別や抑圧を大変憎み、「有害な男性性」の有害さに大変怒りを感じているので、この「進歩」を基本的に歓迎している。 だが、アイデンティティ問題が前景化した結果、氷河期問題、格差、階級差などの問題が相対的に放置されることになってしまい、そのことが別種の問題を引き起こしている点についても、無視してはいけないのだろうと思われる。 フェミニズムが力を持った背景には、SNSが短文や画像中心であり、世論が「共感」で動くようになっていったという技術的な側面がある。そしてもうひとつ、産業構造の転換がある。 ラストベルトなどにおける自動車産業などの重化学工業から、ITや接客、介護などの情報やコミュニケーションを重視する産業へと移行すると、女性の経済力が上がり、発言力や地位も増していく傾向が出る。相対的に、工場などで働いていた男性や、その価値観(男らしさ)などの地位は低下していく。 「弱者男性」論者とフェミニズムの対決の背景にはこのような産業構造の転換があり、それが「都市/地方」の格差とも重なって来る(都市の方が、新しい産業の仕事が多いからである)。 女性たちやLGBTが社会的な承認を得て地位を向上させていく中で、男性たちの地位が低下していくように感じられる。 価値観、「男らしさ」、生き方の基盤である産業構造が変わったことに適応できない男性たちが没落していき、「弱者男性」論と呼ばれる論陣に繋がっていく。 その議論は多様なのだが、簡単にまとめると、女性やLGBTなどには支援があるが「弱い」男性である自分たちは見過ごされている、ということが中心的な論点である。 それは、「男性」であるだけで「加害者」「特権階級」と即座にみなすような本質主義的なアイデンティティ・ポリティクスへの批判であり、「共感」を中心にした世の中において、アテンション・エコノミーで劣る中年男性はどう救われればいいのかという問題提起だった。その中には正当な部分がある。 そこから、女性は収入を増やしたのだから、上昇婚の傾向を改めろ、という議論が出て来る。これは当然だと思う。 上昇婚の傾向があるからこそ、男性があぶれて、恋愛や結婚を出来なくなっていることは統計上確かなのだから、上昇婚の価値観と文化も「アップデート」するべきというのは当然の議論だろう。 しかし、その場合、かつては経済的に弱い立場だった女性たちが、経済的に有利な立場である男性に、媚びたり、奉仕したり、横暴に耐えたりしていたことも忘れてはならない。 「弱者男性」たちも、それを要求するなら、いわば花嫁修業をするべきであるし、金銭的理由でDVに耐え、風俗などで働いていた女性たちと同じ境遇になることもまた受け容れるべきなのだろう。 「弱者男性」論は、「男性」の中で見過ごされてきた「弱者」の問題を提起する意義のある側面と、ミソジニストや家父長制主義者が女性を攻撃する側面とが重なりながらネットで展開していたので、その腑分けを慎重に行う必要があるだろう。 本当に客観的に「弱者」である場合と、客観的には「強者」であるという属性の加害性や特権性を否定するために敢えて「被害者」を装うという現代的な差別主義者である場合とが、入り混じっているのが、この議論の厄介なところである。 たとえば、産業構造の変化で不利になる者として、対人関係が苦手な脳の特性や障害の持ち主たちがおり、筆者の観察では「弱者男性」論客のそれなりの数が、そのような障害をカミングアウトしている。 また、非正規雇用であるがゆえにお金がなく、結婚できないという絶望を語る者もいる。経済状況と結婚に相関があるのは、統計的な事実である。それは、非正規化という政策の問題だろう。 それら、様々な原因の違いが一緒くたになりながら、「弱者」性を主観的に感じている男性たちが「弱者男性」と自己定義しているのである。 だが、総じて、これらの議論は、産業構造やメディア環境、そして価値観の変化に対する反応、もしくは、その変化についていけないことへの苦境の吐露と理解するべきだろう。 彼らにとっては、リベラルや、フェミニズムは、キラキラした特権的な「勝ち組」の世界の出来事であり、その世界には自分たちの居場所がない、あるいは、蓋をされ、なかったことにされていて、声も無視されている、という感覚があるのだ。
藤田直哉(評論家、日本映画大学准教授)