槙野智章が欧州でプレーしてみたら驚いたこと 海外組が見えないところで戦っている文化ギャップとは
【柔らかいピッチの洗礼】 しかし......ケルンでの初練習で槙野がぶち当たったのは、想像もしない壁だった。それもピッチでボールを蹴る前に起きた出来事だ。 「えっ? おまえ、やる気あんの?」 槙野が持っていた固定式スパイクに、チームメイトの目線が突き刺さった。 「グラウンドがすごいぐじょぐじょで、ゆるゆるだったんですよ。みんな取替式のスパイクを履いていて......ヨーロッパの環境って、ものすごい綺麗な芝生がいっぱいあって...って想像していたんですけど、違った。日本ってめちゃめちゃ芝とか練習環境が整っていたんだなって。すごいなんか大きなショックというか......」 ほかの日本人プレーヤーの多くもぶつかる、欧州の柔らかいピッチの洗礼だった。日本で育った槙野には、練習中から取り替えスパイクを履く感覚がなかった。 「雨の日の試合で、仕方なしに履くというチョイスをするものだと思っていました」 しかも経験したことがないピッチでのトレーニングでは、思わぬ"副作用"もあった。 「1回の練習の負荷がかなりすごかったんです。下半身だけじゃなくて、上半身のところまですごくきた。『うわ、すごいキツイな』みたいな。ただそれは、自分が求めていたものでもありました」 日本ではまったく経験したことのないものを知る。そういった点も求めて移籍を決意した。柔らかいピッチでの疲れも心地よいものだった。「体に対してどういう影響があるのか」と自分で確かめていくプラス思考で、ひとつずつ克服していった。
【自分はどんなプレーヤーなのか】 初練習から数日後、槙野は監督からこう聞かれた。 「自分の特徴は何だ? 自分で言ってくれ」 槙野は当時、フロント主導でケルンに加わっていた。だからなおさら監督のニーズを聞き、そして監督に自分を説明することが必要だと考えていた。監督が望み、監督主導で獲得された選手とは少し違う。その立場はわかっていた。 欧州らしいエピソードでもある。現地では「自分は何者なのか」が徹底的に問われる。それを周囲に説明できないといけない。 個人という存在が、日本の想像のはるか上の「尊厳のあるもの」と考えられているからだ。キリスト教は一神教で、個人があらゆるものを超越した神とつながっていると考える。だから自分自身も「めちゃくちゃすごい存在」となる(阿部謹也氏『「世間」とは何か』参照)。 その個人が尊厳=個性をもって社会(サッカーならチーム)に、責任感をもって加わっていくのだ。 槙野は、サンフレッチェ広島ユース時代は自チームの監督をして「同世代では誰も止められない」と言わしめ、トップチームでも昇格2年目からポジションを確保した。またU-20日本代表の時代から「調子乗り世代」の中心として知られた存在が、欧州の地で「何者か?」と問われたのだった。 槙野は通訳を介して、こう伝えた。 「(サイドバックではなく)センターバックでやっぱり挑戦したいし、チームのコンセプトも含めてまだわかりきれていないけど、 残留争いという厳しい状況はわかっている」 欧州で戦う厳しさを知る、リアリティのある言葉だ。 槙野自身は「監督がやってほしいこと」と「自分がやりたいこと」のすり合わせだと考えていた。 監督からは「チームは今、とにかく人数をかけて守ろうとしている」と言われた。基本的にはチャレンジ&カバーよりも、自分のゾーンのところのスペースを開けないでくれ、とも。さらに攻撃時にはボールを奪ったら、ビルドアップではなく、前線のミリヴォイェ・ノヴァコビッチやルーカス・ポドルスキに長いボールを入れて欲しい、という簡単な指示も伝えられていた。 一方、Jリーグ時代のプロフィールを見た監督からは「なんでこんなに点を獲ってるんだ?」と聞かれ、「そういうスタイルだ。攻撃参加もするし、点も獲りにいく」とも答えていた。しかしそれも「今は、それはやめてくれ」と言われた。 また、槙野には「自分が得意な角度でボール持った時に、必ず相手をはがせる動き」があった。しかし数日間の練習のなかでこれが通用せず「こんなに難しいんだ」と感じるところもあった。 槙野は今でも、この時を含めた当時のことを「どうするべきだったか、わからない」という。 「今の自分だったら『自分のプレースタイルはこうだ』というのを言って、貫き通していたかもしれません。現在は海外でプレーをしている選手たちがたくさんいて、自分のプレーを出していく大切さもわかります。ただ当時は、まず自分のポジションを確保してから、自分のよさを出せばいいと考えていました」