NBA伝説の名選手:ドミニク・ウィルキンズ 驚異のスラムダンクと卓越した得点力で名を残した「ヒューマンハイライトフィルム」
【キャリア晩年は欧州でも輝き放つ】 1992年1月28日のフィラデルフィア76ers戦でアキレス腱断裂の大ケガに見舞われたが、1992-93シーズンで見事に復活し、ジョーダンに次ぐリーグ2位の平均29.9得点を記録。1993年2月2日のシアトル・スーパーソニックス戦は、ボブ・ペティットの通算2万880点というホークスの歴代最多得点記録を更新した。 34歳になっても、ウィルキンズは衰えを感じさせないプレーをしていた。しかし、ホークスとしては契約最終年でフリーエージェントとして再契約できる確証がなかったことと、レニー・ウィルキンズコーチがロスターの再編成を希望したことなどがきっかけとなり、トレード期限直前の1994年2月24日にダニー・マニング(1988年のドラフトNo.1ピックのフォワード)と交換で、万年下位のロサンゼルス・クリッパーズにトレードされたのである。 「腹にパンチを食らったようだった。私はそのフランチャイズに心と魂を捧げたし、トレードされるとは思ってもみなかった」と語ったように、ウィルキンズにとってクリッパーズへのトレードはショックな出来事だった。 トレードから1カ月後にアトランタに戻って古巣と対戦すると、36得点、10リバウンドを記録してチームの勝利に大きく貢献。移籍後の25試合で平均29.1得点を記録したウィルキンズだが、シーズン終了後にフリーエージェントになると、26勝56敗と低迷したクリッパーズを去り、7月25日にセルティックスと契約した。このあと、ドリームチームIIの一員としてカナダで行なわれた世界選手権(現ワールドカップ)に出場して金メダルを獲得。セルティックスで過ごした1シーズンの平均得点は17.8で、ウィルキンズは1995年に長い歴史に終止符を打ったボストン・ガーデンで最後に得点した選手となった。 1995年の夏、ウィルキンズはギリシャの名門パナシナイコスから2年間で700万ドルの提示を受け入れて入団する。ヨーロッパのスタイルに順応することに時間を要したものの、ユーロリーグでの17試合で平均20.1得点、7.1リバウンドを記録。ユーロリーグ・ファイナルフォーでは準決勝のCSKAモスクワ戦で35点、決勝のFCバルセロナ戦で16点、10リバウンドのダブルダブルという活躍でチームの優勝に大きく貢献し、ウィルキンズ自身も、ファイナルフォーのMVPに選ばれたのである。 「ユーロリーグで優勝したことは大きな名誉だった。NBAとは違った旅だったが、達成感とファンの情熱が、それを信じられないほど特別なものにした」と語ったウィルキンズ。しかし、ギリシャリーグのファイナルではライバルのオリンピアコスとのシリーズで敗戦。ケガを理由に第5戦を欠場したウィルキンズは、チーム首脳陣との関係が悪化して裁判沙汰になるなど1シーズンでパナシナイコスを去り、1996年10月4日にサンアントニオ・スパーズと契約した。 低迷期のスパーズで1シーズン過ごすと、ウィルキンズは再びヨーロッパに渡り、イタリアのフォルティトゥード・ボローニャと契約。イタリアリーグで平均17.8点を記録したシーズンを終えると、NBAが選手会に対するロックアウトが解除されたあとの1999年2月5日にオーランド・マジックに入団し、弟のジェラルドのチームメイトになった。 27試合の出場で平均5点に終わったウィルキンズは、このシーズンを最後に、現役を引退。背番号21は2001年にホークスの永久欠番になり、2015年にホークスの本拠地、ステイト・ファーム・アリーナに銅像が建てられた。 2004年からホークスの重役としてフロントオフィスの仕事をしながら、試合を中継するテレビ局で解説者を務めている。 【Profile】ドミニク・ウィルキンズ(Dominique Wilkins)/1960年1月12日生まれ、フランス・イル=ド=フランス地域圏出身。1982年NBAドラフト1巡目3位指名(ユタ・ジャズ)。●NBA所属歴:アトランタ・ホークス(1982-83~1993-94途)―ロサンゼルス・クリッパーズ(1993-94)―ボストン・セルティックス(1994-95)―サンアントニ・スパーズ(1996-97)―オーランド・マジック(1998~1999)●オールNBAファーストチーム1回(1986)/スラムダンクコンテスト王2回(1985、90)●主なスタッツリーダー:得点王1回(1986) *所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)
青木 崇●文 text by Aoki Takashi