優秀砲ながら数が少なく真価発揮できなかった【96式15cm榴弾砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 日本陸軍は1920年代後半に、新たな野戦重砲の調達を考えた。そして新しい仕様なども策定したが、社会的・経済的理由も絡んで実際の開発スタートは遅れてしまった。 それでも1935年に試作砲が完成し、1937年に96式15cm榴弾砲として仮制式化された。従来の日本陸軍は、馬による砲の牽引を重視していたが、1930年代に入って野戦重砲の牽引には車両を利用する方針となったため、本砲は最初から車両による牽引に対応した設計が施されている。 牽引には98式6t牽引車ロケが用いられたが、同車は全装軌式の火砲牽引車で、戦車の技術のフィードバックで開発されたため優秀な車両であった。 96式15cm榴弾砲とロケの組み合わせは好評だったが、国家総力戦の太平洋戦争で戦線がアジア各地から南方島嶼(とうしょ)部にまで大きく広がると、部隊の戦場投入の時点では「砲1門と牽引車1両のセット」でも、補給が潤沢ではないため、砲よりも整備の手間と交換部品や燃料、潤滑油といった品物が必要な牽引車が先に使用不能となる事態も生じた。 それに加えて、96式15cm榴弾砲は1937年の仮制式化から1945年の終戦までにたったの500門程度しか生産できなかったことも、大きな問題だった。同じ敗戦国ながら、ドイツは同様の15cm sFH18榴弾砲を1933年から1945年の間に約7000門近く生産している。 ちなみに本砲にかんしては、太平洋戦争劈頭(へきとう)のフィリピン戦において他の野戦重砲とともに運用されて成果をあげたり、サイパン戦でLVTを多数撃破したり、沖縄戦での奮戦といった戦場エピソードが語られている。特にガダルカナル戦で92式10cmカノン砲とともに実施した「嫌がらせ砲撃」により、重大な被害こそ生じなかったものの、あだ名好きのアメリカ海兵隊員たちに「ピストル・ピート」と呼ばれた。アメリカ軍やイギリス軍では「ビッグ・バーサ」や「アンツィオ・アニー」のように敵の砲をあだ名で呼ぶことがままあり、「ピストル・ピート」もその一例といえよう。 とはいっても、いずれもまとまった数の96式15cm榴弾砲が活躍したというエピソードではなく、少数の門数の「ちょっとした」活躍にすぎない。いくら優秀な戦闘機や世界最大の戦艦が造れても、本来なら制圧射撃などマスで威力を発揮すべき野戦榴弾砲に、個砲または少数砲によるエピソードがあるという点で、日本軍砲兵の高い練度といった人間力は別として、厳しい言い方ではあるが、太平洋戦争における日本は、「野戦重砲すら数をそろえて必要量の砲弾を供給し、正常に運用する国力・兵站力のない二流国家」だったことの傍証といえるのではないだろうか。
白石 光