「罪滅ぼしに来たのですね」…台湾に派遣された日本人医師が目の当たりにした「あの戦争の傷跡」
定年前の50代で「アルツハイマー病」にかかった東大教授・若井晋(元脳外科医)。過酷な運命に見舞われ苦悩する彼に寄り添いつつ共に人生を歩んだのが、晋の妻であり『東大教授、若年性アルツハイマーになる』の著者・若井克子だった。 【漫画】刑務官が明かす…死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 2人はどのように出会い、結ばれ、生活を築いてきたのか。晋が認知症を発症する以前に夫婦が歩んできた波乱万丈の「旅路」を、著書から抜粋してお届けする。 『東大教授、若年性アルツハイマーになる』連載第46回 『住む場所は「幽霊屋敷」、到着したその日から緊急手術…台湾に派遣された脳外科医を待っていた「過酷すぎる勤務」』より続く
台湾の老婦人
慣れてくると気持ちに余裕もでてくるのか、「台湾の人の頭皮は、日本人よりだいぶ厚いんだよ」「もう助からないとわかると、いつの間にか家族が患者を病院から連れ出して、家に帰ってるんだ」など話をしてくれる。 一度、こんなことがあったと言っていた。老婦人が外来を訪れて、日本語で晋に、 「なぜ台湾の、しかもこんな片田舎に来たのか」と尋ねるので、 「かつて日本人はアジアの人々に悪いことをして……」と説明を始めたところ、老婦人は話を遮ってこう言った。 「では罪滅ぼしに来たのですね」 返す言葉がなかったという。 1895年から敗戦まで、台湾は日本の統治下にあった。日本語教育が行われ、日本語の使用が強制された。だから老婦人は日本語が話せたのだ。 あの戦争の傷痕を目の当たりにした瞬間だった。
次の就職先
台湾での生活は、留学していた医師の帰国が早まり1年で終わるのだが、その後も私たちとJOCSの縁が続いたのは、すでに書いたとおりだ。1991年、44歳の時に晋は獨協医大を一度退職するのだが、その少し前、ふたりで今後のことを話した。 「大学を辞めて次は何をするの?」 「そうだね、学生の論文指導かなあ。開業するのもいいかもしれない」 「でも現実問題としてすぐにはできないよね」 しばらく沈黙。私の口からふと、こんな提案が出た。 「JOCSの総主事(統括責任者)の後任が見つからなくて、探しているんじゃない?」 「僕やってもいいよ」 こんな簡単な会話で、晋の再就職先が決まった。JOCSの事務所は早稲田の一角にあった。私たちは栃木に住んでいたから、晋は自宅から新しい職場まで、新幹線を使って片道2時間ほどかけて通っていた。愛用していたノートパソコンと、混雑時に使う折りたたみ椅子をリュックサックに入れての通勤だ。 高橋一・貴美子夫妻と知り合ったのも総主事時代だった。1993年、ふたりがJOCSのワーカーとしてカンボジアへ派遣されるにあたり、その準備を手伝ったのが晋で、その後もアジア出張の折はお互い時間をつくって会うなど、交流を続けていたのだ。 実際この時期、晋はアジア地域への出張が多く、「各地を転戦した」と言っていた。晋は人々のなかに入っていくのが好きだ。そうでなければ、国際地域保健学の道になど進まなかったろう。 そして、彼の身の振り方の常道は、困っている所・必要とされる所へ行く、ということだった。しかしそんな彼も、自分の病を公表したあと日本各地を「転戦」することになるとは、思ってもみなかったはずだ。 「昼夜の別なく救急の呼び出しが…東大出身・エリート脳外科医が経験した「仕事」「家庭」の過酷すぎる“二足の草鞋”」へ続く
若井 克子