いまも続く中世ヨーロッパの市場は、どんなものだったのか
ヨーロッパを旅すると、道端や開けた場所にある市場が目につくことがある。そうした市場は毎日あるわけではない。人々が定期的に集まっては生まれ、時間がたつとなくなっている。中世からある市場は、どんなものだったのか(樺山紘一『ヨーロッパの出現』から本文を引用する。本記事ではそれぞれ異なる時代の図版を挿入した)。 [絵画]中世の街の市場
都市に生まれる市場
現在でも、ヨーロッパの大都市に、市(いち)がたつ。野菜や花、卵や野鳥や川魚、そして籐籠(とうかご)や木工品が、ところせましとならんでいる。おそらく、一〇〇〇年昔のヨーロッパでは、そのような市がにぎわいを演じはじめていたことだろう。むろん、その存在ははるか往古の時代にさかのぼりうるが、いま十一、二世紀、市はにわかに活気を呈している。 農村にいくらかの余裕と余剰ができた。農民みずからが、または村にやってくる行商人をとおして、市に雑多な品々をもちこむ。物々交換か、もしくは貨幣をなかだちとして、農民たちはさまざまの生活具や生産具を、購った。街道の辻や川の合流点など便利な場所が市にえらばれ、ちいさな礼拝堂前の広場の十字架の周囲に、野外市がたった。商いというのは、いつもこうして始まるものだ。 なかには、遠くはなれた土地から、めずらしい商品をもたらして、農民の気をひくものもあった。塩や鉄、陶磁器やガラスなどが、喜ばれた。なかには、はるか東方の国々からはこばれたとおもわれる香辛料までが、商人の荷箱のなかに蔵されていた。 市は定期的ではあっても、毎日とはかぎらない。けれども、便利な地であれば、定住し店舗をかまえる商人もあらわれてくる。すでに数百年前から、たとえばローマ人の駐屯地だった町のように由緒あるところにも、あらためて市と商人とが居をさだめることがあった。
商業と技術発展
商いが改新をとげるとき、はたしてどちらのタイプの商いがより大きな役割をはたしたか。定着して在地の農民たちとのあいだに、小規模な交易をつみかさねる人びとか。それとも、数百キロ、数千キロかなたの地から、高価な品々をはこんでくる人びとか。前者を在地商人、後者を遠隔地貿易商人とよぶ。そのどちらに比重をおくかは、研究者のあいだで議論かまびすしい。だがいずれであっても、商業の改新は、この両者があいたずさえて進行していった。いったん軌道にのるならば、在地商業と遠距離商業とは、両輪として円滑な走行をささえる。 市がたつ町には、人間と品物とが集まった。だがそれにもまして、ものをつくる技術がたくわえられた。さまざまの技術がある。パンを焼いたり、家具を細工したり、布を織ったり、靴を型どりしたり、という技術は、さして高級ではないが、人間生活には不可欠だった。もうすこし高水準のもの、たとえば建材を打つ石工たちや、鉄細工を仕上げる鍛冶屋は、町のなかでも重きをなす。それに、タイルやつぼを焼く陶工は、たぶんアラブ人伝来の秘法をもちいて、重宝がられていた。 このような技術者や商人は店をかまえ、助手をやとい、仲間をつくった。ギルドとかツンフトとかよばれる親方集団がしだいに姿をみせ、手に技をもつ職人が重用されるようになってゆく。町は技術の集積場となり、その制作品は商品の価値をたかめて、取引されてゆく。(後略)
学術文庫&選書メチエ編集部