日曜劇場の舞台「軍艦島」を三菱は20億円で買い取った…ゴーストタウンとして有名な炭鉱島の知られざる歴史
■明治初期の開発は繰り返し頓挫、1880年代にようやく本格化 石炭需要が増加傾向にあった幕末においても、先行して発展する高島炭鉱や三池炭鉱の後塵を拝していた端島は、明治時代に入り、炭鉱としての可能性が注目されるようになる。 まず端島開発に乗り出したのは江戸時代、佐賀藩の家臣であった深堀鍋島家。深堀鍋島家はかって長崎警護を担っており、この地域と関わりが深かった。同家は明治時代に入ってから何度か開発を試みたが長続きせず、廃業の憂き目に遭う。1874(明治7)年には洋式採炭が同家によって行われるが、台風により多大な被害を受けて失敗に終わった。 ■明治23年に三菱の岩崎弥之助社長が島を20億円で買収 その後、高島炭鉱の開発に関わり、ノウハウを持っていた天草出身で当時大地主だった小山秀が1875(明治8)年に端島の山を崩して埋め立て、波対策として堤防を構築する。さらに機械設備も整えて、いよいよ本格的な採炭が始まるかと思われた。 しかし、またしても台風が襲来。設備等を破壊され、頓挫してしまう。明治初期の軍艦島開発は、台風の猛威により繰り返しゆく手を阻まれていた。 開発に進展が見られたのは1886(明治19)年のこと。深堀鍋島家が再度事業化に動き、端島で初となる深さ44mの第一竪坑が開削される。同時に蒸気機関を用いた機械設備や、貯炭場といった施設も設けられた。これにより小規模ながら端島での採炭事業がスタートしたのである。 1890(明治23)年には、大きな転機がやってきた。実業家・岩崎弥太郎が創業した三菱二代目社長岩崎弥之助(弥太郎の弟)が、10万円(現在の価値で約20億円)で端島を買収したのだ。この頃の日本は、鉄道や船舶など、蒸気機関の燃料として、石炭の需要が高まってゆく時期だった。三菱は、高島など長崎の外海側にある島の権利を次々と取得していった。
■三菱は軍艦島の面積を3倍にし、どんどん人を集め石炭を採った 1890(明治23)年の買収以降、閉山に至るまでの約90年間にわたって、軍艦島は三菱の経営下に置かれることとなる。この買収までは、島の形状にはほとんど改変はなされておらず、島の面積は現在の3分の1ほどに過ぎなかった。三菱は、採炭時に生じる不要な岩石や廃石を有効活用することで、明治期に5回もの大規模な埋め立てを実施(その後、昭和期にも1回実施)。この拡張は、採炭作業用地の確保と、労働者の生活用地確保が目的だった。島本来の地形と周辺岩礁の配置を生かし、効率的に進められた。 1891(明治24)年には、蒸留水機や製塩機が設置され、労働者への飲料水配給体制が整う。さらに1893(明治26)年に、三菱社立尋常小学校が設立された。明治中期の島内は、島中央部の岩盤上に3~4階建ての木造住宅が数棟、西部に住宅、北部には尋常小学校などの公共施設及び娯楽施設などがあり、東部に採炭作業場が置かれる配置だった。 その後、明治後期にかけては、1895(明治28)年に第二竪坑(深さ199m)完成、1907(明治40)年に高島との間に海底電信線設置など、石炭生産と生活インフラの強化が加速した。 大正時代に入ると日本最古のRC造アパートが建ち始める。クレーン式上陸桟橋も完成し、船舶への乗り移りがそれまでより容易となった。炭鉱では竪坑の数も増加した。 こうしてピーク時の1959(昭和34)年には総人口約5300人が住むようになった。1km²当たりの人口密度は約8万3600人で、当時の東京の人口密度と比較して約18倍に相当し、当時は世界一の人口密度を誇った。 ---------- 風来堂(ふうらいどう) 編集プロダクション 編集プロダクション。国内外問わず、旅、歴史、アウトドア、サブカルチャーなど、幅広いジャンル&テーマで取材・執筆・編集制作を行っている。バスや鉄道、航空機など、交通関連のライター・編集者とのつながりも深い。編集した本に『秘境路線バスをゆく 1~8』『“軍事遺産”をゆく』『地下をゆく』(イカロス出版)、『攻防から読み解く「土」と「石垣」の城郭』(実業之日本社)、『路線バスの謎』『ダークツーリズム入門』『国道の謎』『図解 「地形」と「戦術」で見る日本の城』『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト・プレス)、『ニッポン秘境路線バスの旅』(交通新聞社)、『2022年の連合赤軍 50年後に語られた「それぞれの真実」』(深笛義也著、清談社Publico)、『日本クマ事件簿』(三才ブックス)などがある。 ----------
編集プロダクション 風来堂