「日本は遅れている」から「西洋的なものはダメ」へ…美術家・篠田桃紅が目の当たりにした、大正時代の極端すぎる“変化”
「希望どおりにいかないのが現実。だけど思い出は、悲しかったことでも、楽しかったことでも、“ある”ということがとてもいいことだなと思いますね。」自由闊達かつ独創的な筆遣いで植物や天候の移ろい、人の感情を表現し数々の作品を生み出した美術家・篠田桃紅。そんな彼女を育んだ、特異な生い立ちとは。 【漫画】死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 大正デモクラシーから震災、空襲を経て現代に渡る自身の生涯をエッセイとともに綴る『これでおしまい』(篠田桃紅著)より一部抜粋してお届けする。 『これでおしまい』連載第3回 『美術家・篠田桃紅の「意外なルーツ」…作品が持つ独創的な世界観は「伝統的な学問」に培われた』より続く
激動の女学校時代
彼女は、3歳上の次姉・朝子と、同じ小学校、続いて同じ女学校に同時期に通学していたことがあります。しかし、わずか3年の違いで、姉妹は異なる女学校生活を送ります。 「私が入学したとき、女学校は5年制でした。姉の頃に4年制から5年制に変わったので、4年でやめたかたもいたけど、5年までいた人もいた。だから、姉が4年のとき、私は1年。姉のおかげで、最初の頃は結構気楽な学校生活を送っていたのね。 入学式で、新入生徒を代表して私が挨拶をすることになったときも、そのことは姉から聞いた。学校が姉に言付けたの。でも、学校は同じだったけど、姉と私は3歳違うだけで、環境が変わった。私の在学中に軍国主義が台頭してきた」 姉は、日本がまだ戦争を始める前の、平和な時期に女学校生活を送ります。封建的な昔の考えが幅をきかせている一方で、西洋から近代思想が入り、進んでいる人はすごく進んでいたといいます。 「姉は、その頃、日本に入ってきた大正デモクラシーの考え方に共鳴して、モダンに生きるにはどうしたらいいか、クラスメートとしょっちゅう話していた。『モダンガールにならなきゃね』って。自主主義的な空気のなかにいたのね。
「西洋先進」の隆盛と衰退
ホットケーキが初めて日本に入ってきたときは、女学校の調理の時間に、ホットケーキの製粉会社の社員が作り方を教えに来て、それを1、2枚、姉は家に持ち帰ってきた。蜜をつけて食べるのよって。私はへえって、母と初めてこんなパンみたいなおせんべいみたいなお菓子を食べたわ、と言ったことを憶えています。 西洋のものは何でも珍しくて、それだけで価値があるものでしたのよ。上等舶来という言葉があった。そのくらい東洋は西洋に遅れていると。西洋先進国という言葉もあった。先に進んでいる国。 西洋のいろんなやりかたに、遅れている東洋の国は学んで追いついていかなくちゃいけない。大正モダニズムの時代で、大正のインテリはみんなハイカラでないと、という風潮でした。 ところが、私が卒業する頃にはデモクラシーはすっかり影を潜めて、反動的に国粋主義になった。西洋的なものはだめ。ハイカラなんてとんでもない。英語は国賊語になって、大事にしない学科になった。だから、姉の世代は私の世代よりもずっと英語がうまいのよ。 つくづく思うわね。人は、みんなそのときの時代の子なんだって。でも、姉はごく普通の結婚をした。私は結婚を考えず、何かをして自分の考えで生きたいと思うようになった」 『「自分たちの精神というものがない」…戦前日本を包んでいた「封建制」の“知られざる影響”』に続く
篠田 桃紅(美術家)