天皇皇后両陛下 戦後80年に強いご意欲 期待が高まる“皇居最後の禁忌”の公開
戦前は戦利品や名簿、戦後は昭和天皇ゆかりの貴重な資料が
静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんはこう語る。 「戦前は天皇が軍の大元帥であったことから、それぞれの戦争の戦利品、戦没者名簿や写真が皇居に保管されるようになったのでしょう。なかでも戦没者名簿は、天皇が靖国神社ばかりではなく、宮中でも戦没者を慰霊・顕彰しているという意味を持ち、大元帥である天皇と日本軍の将兵との精神的つながりを示すものとも考えられていました」 だが、この宝物庫は、天皇と戦争を結びつける象徴ともいえる存在であり、終戦後に廃止され、しだいに忘れられていった。 研究書もほとんどなく、日本経済新聞社で編集委員などを務めた井上亮氏が’17年に出版した『天皇の戦争宝庫 ――知られざる皇居の靖国「御府」』(ちくま新書)の帯では、《皇居に残された最後の禁忌を描き出す歴史ルポルタージュ》と紹介されている。 井上氏は『文藝春秋』’16年11月号で御府の“その後”について、次のように記述している。 《戦後、戦没者の慰霊・顕彰施設として靖国神社は生き残り、一方の御府は歴史から抹消された。入れ物である建物だけが残され、いまは宮内庁の用度課と侍従職の倉庫として使われている。ただ、建物の外には中国大陸から持ち帰った石碑や狛犬の石像など、処分されずに残っている戦利品もある》 この“中国大陸から持ち帰った石碑”とは「鴻臚井碑(こうろせいのひ)」のこと。 中国・旅順で714年に建てられたもので、渤海(7世紀末に中国東北部を中心に建国されたツングース系民族の国)を、唐王朝が冊封(中国の皇帝が周辺諸国の王などを任命すること)した際、唐の使者が井戸を掘ったことを漢字29字で刻んでいる。 前出の皇室担当記者によれば、 「日露戦争の戦利品として日本に運ばれてきました。当時の北東アジア情勢を研究するうえで貴重な資料とされており、中国の学者らが返還を求めるようになりました。それに対して宮内庁は、“国有財産法に従って碑を管理しているだけ”という姿勢をとっています。 現存している御府の収納物について宮内庁は明らかにしていませんが、鴻臚井碑以外にも、文化的に価値のある収蔵品が眠っているのではないかという声もあるのです」 だが御府の存在や現存する“戦利品”の内容を公表することで、諸外国を刺激し、外交問題に発展する可能性もあるという。いわば御府は「パンドラの箱」ともいえる存在なのだ。いっぽうで、こんな意見もある。 「戦後、御府は倉庫として使われてきました。’05年12月に朝日新聞が昭和天皇の遺品が収納されていると報じています。内訳は6万冊におよぶ書籍や、大臣や知事から献上された1千冊余の写真アルバムなどだそうです。 特に写真は、建造中の戦艦大和や戦艦武蔵、また当時の産業の様子を伝えるものなどもあるそうで、歴史的資料の宝庫ともいえます」(前出・宮内庁関係者) 皇居に残された“最後の禁忌”に挑み、戦利品を返却することで負の遺産を清算し、さらに昭和天皇の遺品を公開するのか。それともパンドラの箱として封印を続けるのか。 戦後80年の天皇陛下と雅子さまのご決断は――。
「女性自身」2025年1月21日・1月28日合併号