川崎を走った「トロリーバス」老朽化で解体か? 電車でもバスでもない、謎の乗り物が活躍した過去
トロリーバス登場の背景
ところで、電車とバスをミックスしたようなトロリーバスが、なぜこの時期に登場したのかといえば、1つには当時の燃料事情があった。 戦前、戦中と石油の輸入を断たれて苦しい思いをしたわが国。燃料事情は、今後もどうなるかは分からない。当時はガソリン不足のため、バス会社にはまだ代燃車が残っていた時代である。 そこで、アメリカをはじめ海外での実績があり、動力費の安いトロリーバスが注目されたのだ。また、軌道が不要なトロリーバスは設備投資の面でも有利であり、日本の狭い道路事情からしても、市電よりもトロリーバスのほうが合っていると思われた。こうしたことから、GHQもトロリーバスの導入を強く指導したという。 しかし、実際に導入してみると、デコボコな道路やカーブで屋根のポールが外れやすく、乗務員泣かせな乗り物であった。 さて、川崎のトロリーバスは川崎駅前から市電の池上新田を結び、さらに1954年8月には、埋め立て地の水江町まで延伸された。その後、川崎駅前の道路混雑が激しくなると、起点の古川通り(小美屋デパート前)でのUターンが困難となり、1962年からはテニスのラケット状の経路(川崎駅付近が、両回りの循環線)を走るようになった。 このように市中心部と臨海工業地帯を結び、工業都市・川崎の通勤需要を支えたトロリーバスであったが、活躍した期間は短かった。レールがないとはいえ、架線に沿って進まなければならず、渋滞時に小回りが利かないのは市電と同様であり、また、ディーゼルバスの発達により、動力費における優位性もなくなった。 川崎のトロリーバスが廃止されたのは、1967年4月。その車両が1台、今も高津区の二子塚公園という小さな児童公園に保存されている(104号車)。ほか、隣の横浜市へ移籍した車両もあったが(701~704号車)、その横浜市のトロリーバスも、横浜市電とともに1972年3月に廃止され、姿を消した。 ※この記事は、森川天喜氏の著書『かながわ鉄道廃線紀行』(神奈川新聞社、2024年)に、編集を加えて転載したものです(無断転載禁止)。なお、文中の内容・肩書などは全て出版当時のものです。
筆者プロフィール:森川 天喜(もりかわ あき)
旅行・鉄道作家、ジャーナリスト。 現在、神奈川県観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)、『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月 神奈川新聞社刊)など。
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