【祝】大家族石田さんチ・末っ子隼司くんが2児のパパに!千惠子さんの“おばあちゃん”としてのあり方|STORY
1997年から「石田さんチ」の愛称で親しまれてきたドキュメンタリー番組『7男2女11人の大家族石田さんチ』。リアルな家族ドラマに心を掴まれた人も多いはず。先日放送されました、日本テレビ「大家族 石田さんチ~密着26年! 新たな命も誕生SP~」でますます「石田さんチ」の大ファンになりました。前回の取材で末っ子隼司くんの思春期からパパになるまでのお話をお母さんの千惠子さんにお聞きしていましたので、そのエピソードをご紹介!“おばあちゃん”としての立場についても語ってくださいました。
石田千惠子さんprofile 1954 年3月14日 茨城県東海村生まれ 1974 年 美容師資格取得後、美容師として活躍。 1979 年 同級生の晃さんと結婚。 1979 年 11月長女を出産。 その後、7男2女のお母ちゃんとして1997年日本テレビ『大家族の石田さんチ』で紹介され、日本一有名な大家族のお母さんに!
「私が親です、責任は私にあります」を伝えるため反抗期の息子の送り迎えは必死でしていました
末っ子の思春期はご存知の通り、まあ大変でしたよ。あの時代をありのまま隠さず放送したことは同じように思春期のお子さんを持つ親にとっては大事だったと思います。実際に当時は「助けられました」という意見も多くいただきました。本当の姿を隠したって仕方ない、生きるってこういうことって伝えることも大切だと考えていました。 放送してなかったことといえば、あの時は息子が遊びに行くところには必死で送り迎えをしていましたね。それは「私が親です、責任は私にあります」というのを見せる必要があったと思ったからなんです。お友達の家に送っていくときも「何かあったら私に電話してください」と相手の親に電話番号を渡していました。息子と関わりのある人に「隼司の親です」ってうちの電話番号を配って歩いてね…。そのなかである方が「彼は心が優しい子よ、だから大丈夫」って言ってくれたことがあって、その言葉に私は助けられたんです。息子がどれだけ手に負えなくなっても「この子は大丈夫」って信じていられました。ただ一方でもし息子が何かしたら私が息子を殺してでも責任を取る覚悟も持っていました。 思春期で何もかもに反抗しているときって何を言ってもダメなんですよね。昔は家の電話しかなかったから家族のコミュニケーションが自然ととれていたけれど、今は個人の電話になってしまったので、子どもが誰とどう繋がっているのかもわからなくなってしまった。いま令和の時代を生きている思春期の子どもを持つ親御さんは、昔以上に子どもとの会話や繋がりを大事にしなければいけないと思いますね。 やってきたことは全て経験になるんだから、好きなように生きていいよ。 自分が産んだからにはその子を一人前にすることが親の役目ですよね。でもそれがうちの場合はいい大学に行ってほしいとかはなく、やりたいと言ったことはとにかくさせてあげたいと思って育ててました。夫は「そこまでさせる必要はない」とブツブツ言ってましたけど、何事も無駄はないって私は思っていたので、子どもにはやりたいように生きなさいと伝えてました。その子が将来そのままその道を進むかわからないけれど、自分のやってみた経験って人のものではなく自分の財産なんだから、たくさんの経験は自分のいろんなポケットに入れてしまっておけばいいんですよ。それが直接自分のためにならなくても、他人の役に立つかもしれないしね。全部経験なんだから、人生の好きなように生きていいよ。と言ってあげることが親の役目だと私は思います。そんな石田家の一番の暴れん坊(末っ子の隼司)が今は子どものパパなんだから…人生わからないもんよね。