トイレの前でソ連兵に襲われた日本人女性――性暴力が「日常」だった、敗戦後の北朝鮮 #戦争の記憶
1945年8月。玉音放送の6日後にはソ連軍が北朝鮮に進駐し、難民と化した現地の日本人に略奪と暴行の限りを尽くしたというが、その残虐性は何よりも女性たちに向けられた。泥酔したソ連兵が、性的な求めを拒絶した10代の姉妹を銃殺する事件も起きており、在留邦人の子どもたちの間ではやっていた“ソ連ごっこ”では、ソ連兵役の子が「女を出せ!」とロシア語で叫んだ。性暴力はもはや「日常」の一部だったのだ――。 【写真を見る】地獄のような朝鮮半島で「日本人6万人」の命を救った「男」〈実際の写真〉
当時、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「とある男」に光を当てたノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)をもとに、日本人女性たちが体験した「地獄」を再現する。(全6回の4回目/最初から読む) ***
深夜、トイレの前で拉致された日本人女性
ソ連兵の凶暴性は何よりも女性に対して、むき出しにされた。 17歳だった神崎貞代は南下途中で辿り着いた日本海に面する城津(じょうしん、現在のキムチェク)で、ソ連兵の恐ろしさに震えた。 城津駅近くにあった機関庫で深夜、疲れ切った体を休めていると、闇を引き裂く悲鳴が響き渡った。用を足しに機関庫の外に出た数人の女性が便所の前で、ソ連兵に連れ去られたのだった。 神崎が表情を強ばらせて振り返った。 「明け方、女の人たちは黒パンを抱えて、さながら廃人のような様子で戻ってきたと聞きました。(避難民の間で)『女性は一人で便所に行かないこと』と注意が出ました。行く時間を決めて、その時には、男の人がトイレまで2列に並んで、その間を走って行くんです」 女性は男に見えるように、髪をバッサリと切り、鍋底にこびりついたススを顔に塗りつけた。神崎や神崎の母もそれに倣った。
「死んだようになった女は、身を伏したまま泣いている」
若い女性の断髪は当時、北朝鮮各地で繰り広げられた。例えば、満州との境に近い平安北道(ピョンアンプクド)江界(カンゲ、現在は慈江道=チャガンドに属する)では、「若い女達は、ソ連兵が来るたびに、みな屋根裏や地下室に隠れるか、高梁畑に身をかくした。誰いうとなく髪を切った女に手を出さぬというので、娘達はみないがぐり頭になって、立派な中学生になりすました」と江界日本人世話会会長を務めた八嶋茂は手記で振り返っている。 水俣病の発生で国内外の批判を浴びた化学メーカー「チッソ」の前身にあたる「日本窒素肥料」。同社は戦前、日本海に通じる東朝鮮湾に面した咸鏡南道(ハムギョンナムド)興南(フンナム)に世界最大規模の化学コンビナートを築いた。その興南工場に勤務していた鎌田正二が記した『北鮮の日本人苦難記──日窒興南工場の最後』には、ソ連兵による暴虐の凄まじさについて、一例を挙げて描写されている。 〈「ロスケがきたぞ」と叫ぶ声に、逃げだそうとするまもなく、数名のソ連兵がピストルを手に、ドヤドヤと靴音たかくはいりこんでくる。一名のソ連兵は、おどおどしている夫にピストルをつきつけて、部屋のそとへつれだす。妻は子供をいだいて恐怖におののいている。ソ連兵は子供をうばいとって投げだし、女にいどみかかる。女の必死の抵抗も、数名の男にはかなわない。やがてソ連兵はひきあげてゆくが、死んだようになった女は、身を伏したまま泣いている。夫は歯を食いしばって、すごい形相をしていたが、やにわに庖丁を手にソ連兵を追おうとする。近所の人たちは、「がまんしろ」と押しとどめる。みんなに迷惑がかかるからと頼む。夫は思いとどまる。数日のあいだ夫はやけになって、どなりちらし、妻は苦痛のため起きようとしない〉