横田基地と共に栄えた「米軍の街」が「多国籍タウン」へ…東京都・福生市 混沌のディープタウンを歩く
「飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の羽音だった」 若き日の村上龍は、デビュー作『限りなく透明に近いブルー』の書き出しをこう綴っている。 【画像】アメリカを思わせる飲食店が集まる「ベースサイドストリート」 米軍横田基地を抱える東京・福生(ふっさ)の街の混沌を描いた同作は今もなお、街の代名詞であり続けている。同時に、生々しいセックスやドラッグの描写によって、街に退廃的なイメージがついたという批判も年配の在住者からは聞かれた。 ’70年代以降、大瀧詠一ら数多のアーティストが福生で、創作活動に励んだ。表現者達を惹きつけた熱狂が、この街には確かに存在した。 あれから約半世紀――令和の福生を歩くと、当時から明らかな変化が感じとれる。総面積7㎢以上、軍人とその家族ら約1万1000人が居住する米軍基地と共に歴史を紡いできた福生市の、変貌と今を追った。 「東京のアメリカ――」。 時にそう評される理由は、都心から西へ約40㎞に位置するこの地を実際に訪れると理解出来る。JR福生駅やコンビニにはアメリカ人が往来し、英語表記やドルでの料金表を掲げた商店も散見される。市内を走る車は米軍関係者を示す「Y」ナンバーが占める割合が多く、アメリカ人を対象とした車屋や保険代理店も目立つ。教会の多さも特徴の一つだろう。 同時に住宅街の真上を低空飛行する輸送機の騒音に驚かされる。’20年には、基地周辺の住民らが国を相手に騒音被害を訴え、国に1億1200万円余りの賠償を命じる判決が下った。今なお、基地に反発している人も少なくない。 約5万6500人が暮らす福生を象徴するのが、横田基地に面する国道16号沿いに約1㎞にわたって展開する「福生ベースサイドストリート」だ。約65店舗が点在する商店街で、正式名称は福生武蔵野商店街振興組合という。 ベースサイドストリートにはかつて、ヒッピー文化に憧れた若者が集い、音楽やファッションの発信地として隆盛を誇った。しかし、ヒッピー文化の衰退とともに次第に人は離れていき、’90年代半ばからは店を畳む経営者が増えていった。 福生武蔵野商店街振興組合の組合員で、米軍ハウスをリノベーションしたコミュニティースペース「福生アメリカンハウス」で語り部を担う、五十嵐みささん(67)が説明する。 「’70年代ごろはヒッピーカルチャーが好きで、福生に移り住む人が沢山いました。一方で、村上龍さんが描いた退廃的な世界観がイメージダウンに繋がるという意見も昔からあるんです。創業時の店主たちは高齢で代替わりし、ベースサイドストリートはこの5年ほどで大きく変わりました」 2020年代に入って集まってきたのは、アメリカ西海岸を想起させる福生の雰囲気に魅せられた若者だという。 「アメリカを感じられる福生で商売がしたいと移住してくる若い人の店が増えましたね。その影響か、20代を中心に県外から来る観光客が本当に増えて、週末などは行列が出来ている店もあります」(五十嵐さん) 現在のベースサイドストリートは、″第2世代″と呼ばれる経営者が中心となりつつある。現地を歩くと確かに10代や20代の若者、とくに女性客が目につく。彼女らに話を聞くと、「飲食店も含め、他にはないアメリカンな街の雰囲気が面白い」と口をそろえた。 この通りのすぐ近くで’50年ごろから建設が始まったのが、在日米軍の軍人が居住するための白壁の木造平屋、米軍ハウスだ。往時は2000棟にも及んだが、基地内の宿舎が充実したことで現在では150棟ほどに減少。今では米兵は使っておらず、オールドアメリカン文化を楽しみたい民間人達が、リノベーションして暮らしたり、先の五十嵐さんのように店舗などに再利用している。文化財的な存在となっているのだ。 ◆″赤線″の盛衰 約4300人の外国人が居住する福生市は多国籍化が進んでいる。’22年のデータによると国籍数は68ヵ国にのぼり、都内26市で最も外国人比率が高い。ちなみにアメリカ人は116名と、決して多数派ではないことは少し意外だった。 横田基地からほど近いカリブ料理店「The Big Bamboo」のオーナーでドミニカ国出身のケイシー・クーパーさんが言う。 「これまでニューヨークやいろんな街に住んできたけど、福生ではレイシズム(人種差別主義)に基づく偏見を感じたことがない。長い年月を経て、地域と外国人との相互理解が進んだからだと感じます。都心のように混雑しすぎていないことも、外国人にとっては子育てする環境として魅力的でした」 もう一つ、福生の盛衰を表しているのが駅前に広がる旧赤線地帯だ。東口を出て5分ほど歩くと、そのネオン街は見えてくる。戦後から’57年頃まで、ここで合法的に売春が行われていたが、区画整理により消滅。跡地にバーやキャバレーなどが集まり、約20年前までは西東京エリア最大の歓楽街として多くの酔客が集ったという。当時を知る飲食店関係者がこう話す。 「ピークは’70~’80年代。米軍関係者もたくさん来て、それを目当てに若い女の子達も集まっていた。バーやキャバレーの数は優に300軒は超えていたんじゃないかな。今では随分落ち着いたけど、この狭い一角で日々喧嘩が多発して、まさに眠らない街だったね。地元の人は今もこのあたりを″赤線″って呼ぶよ」 だが’90年代以降、ベースサイドストリートと同様に″赤線″からも徐々に人足は遠のいていった。建物の老朽化に伴う再開発の影響で、クラブやバーが姿を消したのが原因だ。昨年も100軒以上の飲食店が閉店したという。街のモニュメントであったリリー・フランキーが描いた巨大な壁画も取り壊され、店主たちは深刻な客足減に危機感を持った。 ″赤線″を歩き、興味深かったのは半径500mほどの歓楽街で、明確な区分けが行われていたことだ。 福生駅から基地方面に向けて東西に延びる富士見通りを挟み、日本人、中国人や台湾人が集まるアジア系のスナック街と、米兵を中心とした多国籍なバーやレストランが集中する二つの地区に分かれており、両者は交わることはない。一軒のスナックに入ると、台湾人のママが事情を教えてくれた。 「アジア側のほとんどのスナックでアメリカ人は出禁になっています。キャッシュオンデリバリー文化で育ち、日本の後払いの料金システムを理解出来ないアメリカ人がたびたびトラブルを起こすからです。このエリアには日本人経営者が手放した店に韓国人が入るというケースが多かったんですが、今はほぼ台湾人と中国人が経営者になっています」 もう一方のエリアは国際色豊かでタイやブラジル、ペルー料理店にバーやライブハウスが混在する。客の中心は外国人のようだが、年齢層は比較的高めだ。横田基地で働くアメリカ人男性が明かす。 「若い子たちは六本木まで遊びに行っているよ。我々年長者は基地の中のお店で十分事足りるから、外に出ても気分転換程度で長居はしないね」 筆者は何度かこの地区を訪れたが、米兵で賑わう店は3店舗ほどで、他は人の出入りもまばら。むしろアジア系の遊歩者が目を引いた。フィリピン人女性が働くバーに入ると、こんな話を聞いた。 「10年ほど前、このエリアで発砲事件があり、そこから基地に門限が出来た。深夜1時までに戻らないといけないそうで、深酒する人は減りました。喧嘩などのトラブルも減りましたね。消えたわけではないですけど。そうは言っても夜の客の6割が基地関係者、2割が日本人というので、この街にとって米兵が落とすお金はいまだに大きいですよ」 デリケートな基地問題やその余波に直面している福生市は広報面に力を入れている。騒音問題や、米軍人などが起こした事件はHPですぐに詳報される。市の基地・渉外担当者はこう話す。 「横田基地を抱える5市1町、都の都市整備局と連携して基地問題と向きあっています。特に騒音への問い合わせは多く、周辺市と協力の上で横田基地へ報告しております」 横田基地と共に栄え、西東京最大の歓楽街として一時代を築いた街は、静かに多国籍タウンへと生まれ変わろうとしている。 ◆栗田シメイ◆ ’87年生まれ。スポーツや経済、事件、海外情勢などを幅広く取材。著書に『コロナ禍を生き抜く タクシー業界サバイバル』。『甲子園を目指せ! 進学校野球部の飽くなき挑戦』など、構成本も多数 『FRIDAY』2024年5月31日号より 取材・文:栗田シメイ(ノンフィクションライター)
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