蒙古襲来750年:大戦時の国威発揚に利用された「神風」伝説
「蒙古襲来650年」はどう扱われたか
それから600年以上の時を経て、「神風」もあって外敵の元を退けたという伝承は、日中戦争や太平洋戦争時の軍国主義の下で国威や戦意の発揚に利用された。 1931(昭和6)年は、関東軍が南満州鉄道を爆破し、満州事変の発端となった年。ちょうど弘安の役から650周年にも当たる。「満蒙の危機」が叫ばれる中、「国民精神を作興する(奮い起こす)」という趣意書の下、全国的に元寇(蒙古襲来)記念行事が行われた。当時の鹿児島新聞によると、鹿児島での式典では「陸軍中将佐多武彦が講話を行った。ついで元寇の歌を斉唱」(※1)したという。 一方、学校教育では元寇はどのように取り上げられたのだろうか。戦前の1903(明治36)年から1945(昭和20)年までは国定教科書制度(終戦直後の暫定期を除き計6期)だった。『日本教科書大系 歴史近代編』によれば、初等教育の歴史教科書に「神風」が登場したのは、全体主義化が進んだ第4期(1934年3月~40年1月)だ。同期の教科書改訂には陸軍省が参画し、全体に「忠君愛国」教育の徹底が図られたという(※2)。 このうち元寇については、「にはかに神風が吹きおこつて、敵艦の大部分は沈没」とある。注目されるのは、神風だけではなく、執権・北条時宗は「非常な決心で」臨み、「国民(原文・國民)は皆一体(原文・一體)となつて奮ひおこり、上下よく心を合はせて」、強敵を追い払ったとも記されている点だ。 果たして鎌倉時代に「国民は皆一体」だったのだろうか。参戦した武士でさえ「恩賞と名誉のために戦い、味方同士で競り合ったのであり、『国を守る』意識はなかった」と、放送大学の近藤成一教授(日本中世史)は話す。国定教科書の記述は鎌倉時代の実態からかけ離れ、「『蒙古襲来』を当時の戦争敵国に例え、全国民の挙国一致・戦意高揚を促している」(三池純正著『モンゴル襲来と神国日本』洋泉社)と解釈できる。