「自由なんてなかった」...“身分を偽って”カナダに渡った中国人たちがわざわざ母国に戻る謎
北米中華、キューバ中華、アルゼンチン中華、そして日本の町中華の味は? 北極圏にある人口8万人にも満たないノルウェーの小さな町、アフリカ大陸の東に浮かぶ島国・マダガスカル、インド洋の小国・モーリシャス……。 世界の果てまで行っても、中国人経営の中華料理店はある。彼らはいつ、どのようにして、その地にたどりつき、なぜ、どのような思いで中華料理店を開いたのか? 【漫画】刑務官が明かす…死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 一国一城の主や料理人、家族、地元の華人コミュニティの姿を丹念にあぶり出した関卓中(著)・斎藤栄一郎(訳)の 『地球上の中華料理店をめぐる冒険』。食を足がかりに、離散中国人の歴史的背景や状況、アイデンティティへの意識を浮き彫りにする話題作から、内容を抜粋して紹介する。 『地球上の中華料理店をめぐる冒険』連載第11回 『「名前から何から、その人物になりすますんだよ」…移民が制限されていた国に中国人を潜り込ませた驚愕のやり口とは』より続く
周瑞濯という男
ジムのペーパー・ファーザーは、周瑞濯(チョウ・ユアン、通称「ファット・クック」)と言い、1911年にカナダにやってきた。500ドルの人頭税を払い、清朝中国の出身者らしく弁髪を結っていた。 周が最初に見つけた仕事は、バンクーバーの医院での下男で、月給は4ドルだった(訳注:肉体労働に比べると、住み込み使用人の賃金は安かった)。 「当時としては結構な額」とジムが言う。「3年も働けば、中国ならゆうに1200平方メートルを超える土地が買えるほどの蓄えになったね」 1929年、周は仲間数人を集めてアウトルック・カフェを開店する。ジムがカナダに到着して最初に働いたのも、このカフェだ。 数年働いた後、ブリティッシュ・コロンビア州のドーソン・クリークに向かい、アラスカ・ハイウェイの建設作業に携わった。アウトルックに戻ったのは戦後のことだ。
「選択肢なんてないんだよ」
中国の原籍地(先祖が籍を置いていた場所)への旅を考えていた周は、1947年に中国人移民制限法が廃止されたタイミングで、ジムに中国への同行を命じた。 「中国に帰る理由は知っていたんですか」 「父は何も言わなかったけど、僕はわかってたよ。中国人のやり方だからね。父親が行けと言ったら、行くしかないよ。当時は今よりももっと親が偉かったんだ」とジム。 「お父様はどうして同行を命じたんですか」 「結婚さ」と照れ笑いを浮かべた。 「じゃあ、息子の嫁探しで帰国を計画したわけですか」 私はわざと怪訝そうに尋ねた。 「そうさ、行けば、どうなるかわかってたし。こっちに住んでいても、おじだっていとこだってみんな嫁探しで帰国したんだから」 「本音は行きたかったんですか」 「別に……。でも行ったね」 「お相手は見つかったんですか」 「嫁探しと言えば聞こえはいいけどね、あのころは、自分の自由なんてなかったから」 そう言いながら茶目っ気たっぷりに笑う。 当時、24歳か26歳だったという。いわゆる取り決め婚であり、花嫁は初対面の相手だった。だが、翌年、ジムは新妻のメイ・ウォン(黄美雪)を中国の家に残したまま、カナダに戻る。 「一緒には行けなかったからね。まず自分がこっちに来て、サスカトゥーンの入国管理局で妻の入国申請をする必要があったので」 ようやくメイがカナダに渡ったのは、3年後だった。そのときに同行したのが、ジムのいとこのチョウ・フォン(周同皖)である。フォンは、ジムと同様にペーパー・サンとしてカナダに入国し、隣町のローズタウンにあるチャイニーズカフェを切り盛りする「父親」を手伝うことになった。 取材中の晩に、ジム夫妻は店にフォン夫妻(フォンは1955年に里帰りして関美意(クワン・メイ・イー)と結婚)を招いて麻雀を楽しんでいた。そこで私はジムの妻に、金山行きに帯同することを二つ返事で受け入れたのかと尋ねた。 「選択肢なんてないんだよ」。ジムが代わりに答える。「はいと答えたら、やるしかないからね」 ジムがいたずらっぽい笑いを浮かべて、こちらを見る。 『「中国系というだけで」…ある華人の明るい振る舞いに隠されたカナダの「闇」と「差別意識」』へ続く
関 卓中(映像作家)/斎藤 栄一郎(翻訳家・ジャーナリスト)