「命日から15年」三沢光晴さん、24年前「プロレスリング・ノア」旗揚げ1か月前に告白した信念…「俺はプロレスにプライド持っている」
プロレスリング・ノアの創始者で伝説的プロレスラーの三沢光晴さんが2009年6月13日に急逝してから、15年目の命日を迎えた。 三沢さんは1962年6月18日に北海道夕張で生まれ、足利工大附属高校でレスリング部に入部。国体優勝などの実績を残し、卒業後の81年3月にジャイアント馬場さんの全日本プロレスへ入門し同年8月21日の越中詩郎戦でデビューした。 84年8月26日の東京・田園コロシアム大会から覆面レスラーの2代目タイガーマスクに変身。ジュニア戦士として一時代を築いたが90年5月14日の東京体育館でのタッグマッチで突如、マスクを脱ぎ捨て素顔の「三沢光晴」となる。以後、ジャンボ鶴田さんとの世代闘争、「四天王」と呼ばれた川田利明、小橋建太、田上明との激闘で90年代のプロレス黄金時代を牽引した。 2000年6月に理想のプロレスを求め全日本を退団。プロレスリング・ノアを設立し同年8月5日にディファ有明で旗揚げ。新日本プロレスなど他団体との対抗戦にも積極的に打って出て数々の伝説的な名勝負をリングに刻み込んだ。 しかし、09年6月13日、広島グリーンアリーナでのタッグマッチ中での事故で急逝。死因は「頸髄離断」。46歳の若さだった。 私は、2000年夏、全日本を退団してからノアを旗揚げするまでの渦中で三沢さんをインタビューした。24人の選手、レフェリー、18人の社員が三沢さんと行動を共にし全日本との決別は、当時、一般週刊誌でも取り上げられるなどプロレス界の枠を飛び越え衝撃的「事件」として大きく報じられた。 24年前の激動の夏。インタビューは旗揚げ戦1か月前の7月4日、ディファ有明内のレストランで行った。スーツ姿の三沢さんは、上着を脱ぎ捨てると取材に応じてくれた。希望に満ちた笑顔は今も忘れられない。そして、私が新団体のスタイル、カラーを尋ねると、こう掲げた。 「自分の時代のプロレスを下に押しつけるつもりはない。選手には好きなことをやらせたい。今は何が受けるか分からない時代。“こうじゃなきゃいかん”という考え方は現実離れしている」 ノアでは、全日本時代ではなかった花道、入場時のレーザー光線など演出も取り入れることも明かした。 「戦うスタイルは基本的に変化はない。ただ、演出面ではできなかったことに挑戦したい。入場テーマも耳が痛くなるぐらい大きくていいし特殊効果も使いたい。演出が派手だと選手も『ヨーシ』と燃えていい試合につながる」 当時は、格闘技イベント「PRIDE」の人気が急上昇しプロレスが低迷の危機に入り始めていた。 「プロレスラーがいつも向こうのルールばかりで戦っている。俺はプロレスにプライドを持っている」 当時は、「最強」の幻想があった高田延彦、船木誠勝が“400戦無敗”の触れ込みをひっさげたブラジリアン柔術のヒクソン・グレイシに敗れた。インタビューで三沢さんはヒクソンにも言及した。 「やるんだったらプロレスのリングで戦いたい。ヒクソンを俺たちのリングに呼んで戦いたい」 インタビューの最後。三沢さんは、これから船出する「新団体」への思いをこう打ち明けた。 「今回の行動が正しいか悪いかは判断がつかない。ただし、俺は自分の試合にはプライドを持っている。試合を見てほしい」 命日から15年。インタビュー記事を読み返すと三沢さんは、自らの試合、そしてプロレスに「俺はプライドを持っている」と二度繰り返していた。 命をかけて貫いたプロレスへの誇り。今、改めてかみしめる。三沢さんの「プライド」を客席、テレビで体感したファンはどれほど幸せだったか。あの「三沢コール」はそんなファンが発する至福感の象徴だった。 三沢さんが掲げた「プロレス・プライド」。どれだけ時が経とうと、どんなに時代が変わろうと、プロレスラーが貫くべき信念だと心の奥底から思う。 (福留 崇広)
報知新聞社