ディズニー100周年記念作『ウィッシュ』レビュー。他者の願いを願い、叶えることとは? 本作から考える「利他主義」と「利己主義(エゴイズム)」のゆらぎ(評:関根麻里恵)
「他者のために願う」ことと「利他」
これまでのディズニー作品において、自分の夢や願いを叶えるために星に願ったり、魔法の力を借りる主人公は数多くいたが、他者の夢や願いを叶えるためにそれらを行った主人公は極めて稀である。また、建前であっても他者の夢や願いを叶えるために魔法を使うヴィランも珍しい。しかし、他者のためを思って願ったり魔法を使うことに対して、それぞれに危うさを抱えている。 ここでは、「他者のために願う」という側面からアーシャとマグニフィコについて検討してみたい。ここで補助線となるのが「利他」という概念である。 伊藤亜紗(2021)によると、利他はキリスト教の「隣人愛」や、浄土真宗の「他力」など、宗教的な価値観との結びつきが強い言葉であるが、現代においてはその文脈とは切り離されつつあるという(伊藤 2021: 20)。アーシャの父親が哲学者だという設定を活かし、ここでは哲学者たちの議論を参考にしてみよう。たとえば、フランスの哲学者オーギュスト・コントが提唱した「利他(愛他)主義(Altruism)」は「利己主義(Egoism)」に対置され、「他者のために生きる」こと=自己犠牲を指していた。 コントを敬愛していたフランスの哲学者アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)は、「利他(愛他)主義」を次のように書き記している。 これはエゴイズムの反対である。これは他の人たち(autrui=「他者」)のことを思う性格、彼らが何を思っているか、何を感じているか、何を希望しているか、何を欲しているか、何を欲するはずであるか、何を我慢することができないか、などを考える性格である。これは他人の位置に自分を置くことである。したがって、彼らが表明する、あるいは彼らが表明すると想定される讃嘆や非難によって強く影響される。(アラン 2013: 23-24)。 若松英輔(2022)は、アランにおける「利他(愛他)主義」を、他者からの影響を否応なく受け、他人本位に生き、かつ行動することだと解説している(若松 2022: 11-12)。アーシャは祖父の願いを叶えるためにマグニフィコの弟子になろうとしたり、国民の願いを取り返すことを願って行動したり、親友のダリアから「優しすぎる」ことを短所だと指摘されるほど、他者のために生きようとする。また、ラストで描かれる彼女の選択からも、アーシャは徹底して「利他(愛他)主義」者だといえよう。 いっぽうで、マグニフィコも当初は「利他(愛他)主義」的な要素を持った人物であったと推察される。争いによって大切な家族を失ったマグニフィコは、魔法を研鑽して習得し、アマヤ王妃とともに「願いが叶う魔法の国」を建国した。自分のためだけに魔法を習得したり、多くの人にとって安全で快適な国を建国しようとすることは考えにくい。おそらく、純粋に国を思って国民の願いを叶えていた時期もあったのだろう。しかし、願いを選別するという発想は、「利他(愛他)主義」的とはいえない。ではマグニフィコはどんな主義を持つ人物と考えることができるか。再びアランの知恵を借りてみたい。コントが「利他(愛他)主義」の反対だとみなしている「利己主義(エゴイズム)」について、アランはこのように記している。 身体の境目と結びついた思考であり、快楽を選び量るように、苦しみや病気を予見し遠ざけることに専心した思考である。もしエゴイズムが魂から、恥ずべき情感、卑怯さ、過ち、悪徳を遠ざけるために魂を監視するならば、エゴイズムは一種の徳となるだろう。しかし、エゴイズムはその用法上、意味の拡大を禁じている(アラン 2013: 71-72)。 なにかを自分のものにしたいと思ったとき、自分の苦しみ、病いを予期して遠ざけようとするとき、我々はエゴイズムに目覚めたり、流されたりするという。また、もしもエゴイズムが、自分にとって良くないものや悪徳から遠ざけようとするものであるならば、一種の徳になると考えることもできるかもしれないが、そうした拡大解釈はふさわしくないとしている(若松 2022: 13-14)。マグニフィコは、アランが退けている一種の徳──叶わないかもしれない願いを持ち続けていることは心の負担になるから、それを預かって軽くしてあげること──としてみなせるようなエゴイズムを、他者に対して実践しているといえるかもしれない。 そうなると、単純に二項対立的なものとして「利他(愛他)主義」と「利己主義(エゴイズム)」をとらえることは難しくなってくる。 このことについて新たな視座を与えてくれるのが、フランスの経済学者ジャック・アタリとオーストラリアの哲学者ピーター・シンガーだ。 アタリは、他者を利することがめぐりめぐって自分も利することになるという「合理的利他主義」を唱えており、伊藤は、このアタリの考え方を「利他主義は利己主義の対義語である、という伝統的な考え方を意図的に転倒させたもの」だと指摘する(伊藤 2021: 22)。さらに、シンガーは、功利主義かつ幸福を徹底的に数値化する「効果的利他主義」唱え、利他の原理を「共感」にもとづかないもの、すなわち個人の思い入れを切り離した先の利他を重視している。 マグニフィコは、スターの登場によって自分の権威が危ぶまれ、これまで尽くしてきた国民から出た疑問の声を「これが私への感謝なのか?(This Is The Thanks I Get ?!)」と非難し、自分が利さないことに不満を爆発させる。その意味では「合理的利他主義」者ともいえるし、ロサスや自分にとって都合の良い願いしか叶えないという点では「効果的利他主義」者のように見える。しかし、最終的に彼は、管理していた国民の願いを握り潰し、それを自分のための力に変えて国、そしてスターまでもを支配しようとする。 若松は、アランにとってのエゴイズムを「本来存在する自他の『つながり』を見失った状態」だと言い換えている(若松 2022: 13-14)。そう考えると、マグニフィコは合理的であれ、効果的であれ、利他を持っていたはずなのに、国民からの信頼が得られなくなることを恐れ、自らその「つながり」を断ち切ってしまったことで「利己主義」者(エゴイスト)に堕ちてしまったといえよう。