戦艦「武蔵」「大和」、空母「信濃」…日本海軍の「三大巨艦」すべての最期を見届けた男の回想
私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。今回は、ページ数の都合で掲載できなかったエピソードのなかから、戦艦「武蔵」「大和」、空母「信濃」と、日本海軍の三大巨艦の最期を見届けた海軍士官の回想である。 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
開戦間近、重巡「青葉」乗組を命じられる
水上偵察機が吊光弾を投下すると、漆黒の海面に、4隻の敵艦のシルエットがくっきりと浮かび上がった。昭和17(1942)年8月8日夜、日本海軍第八艦隊の8隻は、司令長官・三川軍一中将座乗の旗艦・重巡洋艦「鳥海」を先頭に、重巡「青葉」「加古」「衣笠」「古鷹」、軽巡「天龍」「夕張」、駆逐艦「夕凪」の順で、単縦陣となって次々と雷撃、砲撃の火ぶたを切った。 武田光雄は、第六戦隊司令官・五藤存知(ありとも)少将が座乗する二番艦「青葉」の航海士として、のちに「第一次ソロモン海戦」とよばれるこの夜戦に参加していた。当時、21歳の海軍少尉だった。 武田は大正9(1920)年、東京生まれ。海軍きっての国際派として知られた海軍大将・豊田貞次郎の次男として生まれたが、母方の武田家に跡取りがいなかったことから、祖父・武田秀雄の養子となった。祖父は明治海軍の草分けの機関科将校で、海軍機関中将で退役したのちは三菱に招かれ、武田が生まれた頃には三菱造船の会長を務めていた。 昭和13(1938)年、海軍兵学校に七十期生として入校。日米開戦を間近に控えた昭和16(1941)年11月に繰り上げ卒業すると、少尉候補生として恒例の練習航海も、天皇陛下の拝謁もないままに、クラスメート432名全員がただちに艦隊に配乗され、武田は重巡「青葉」乗組を命ぜられた。「青葉」は、昭和2(1927)年、祖父が会長時代の最後に三菱長崎造船所で竣工した巡洋艦で、進水式に列席した祖父から記念品や絵葉書をもらっていたこともあって、武田には子供の頃から思い入れの深い艦(ふね)だった。 海兵七十期の卒業からわずか23日後、太平洋戦争が始まる。武田は、水雷士(魚雷を扱う水雷長の補佐)としてグアム島、ウェーク島、ラバウル攻略、珊瑚海海戦に参加。昭和17(1942)年6月、少尉に任官すると、7月、艦内の配置転換で航海士となる。 7月14日、「青葉」「衣笠」「古鷹」「加古」からなる第六戦隊は、新たに編制された第八艦隊(外南洋部隊)に編入された。第八艦隊が担当するのは赤道以南で、おもにニューギニア、ソロモン諸島の海域である。アメリカとオーストラリア間の交通路を遮断し、米軍が豪州を経由して南から反攻に転じるのを防ぐため、日本軍は早くから、その中心に位置するニューブリテン島ラバウルを占領、ここを足がかりにソロモン諸島、そして連合軍の一大拠点であるニューギニアのポートモレスビーを窺っていた。