【追悼】密会、激高、ゴルフ…本誌が報じてきた”ナベツネ”渡辺恒雄氏の唯一無二な〝存在感〟
政治・メディア・球界で大きな影響力
読売新聞社という巨大メディアグループの総帥として、長年メディアや政治、そして球界にも大きな影響力を持ってきた渡辺恒雄氏が19日午前2時、肺炎のため都内の病院で亡くなった。98歳だった。 【言葉にならない叫び!】すごい…マスコミに腹を立てて車の中で怒声をあげる渡辺氏 読売新聞社で政治部記者として頭角を現した渡辺氏は、1991年に代表取締役社長・主筆に就任。その在任中の1994年には発行部数1000万部を達成した。また、記者時代から親交のある中曽根康弘元首相をはじめ、時の首相や大物政治家たちと太いパイプを持っており、憲法改正や、軽減税率、大連立構想などを提言。メディアの人間にもかかわらず政治に介入することに対して批判もされていた。 とくにその存在が大きかったのは、プロ野球・巨人、そして球界への影響力だろう。それまでは野球に興味がなかったという渡辺氏は1989年ごろから巨人の経営に関わるようになり、1996年にはオーナーに就任した。’04年の球界再編問題時には1リーグ制を主張していたが、世論と選手会の反発を受けて頓挫。同年8月に一連の騒動の最中に、ドラフト有力候補への裏金問題が発覚し辞任した。 しかし、’05年6月には球団会長として復帰することに。’11年’11月には当時球団代表だった清武英利氏から「コーチ人事に不当に介入した」として告発される。しかし、その権勢が揺るぐことはなく、自らを「独裁者」とも称していたという。 そんな渡辺氏について、本誌がこれまでに報じてきた記事から一部を紹介する(※肩書きや名前は報道当時のもの)。 ◆創価学会会長、自公幹部との〝料亭密会〟(1999年10月8日号) 自民党総裁選が行われていた1999年9月17日。東京・千代田区内の高級料亭。政治家たちがよく密談に愛用するこの店の玄関から、議員バッジをつけた数人の男性と談笑しながら現れたのは渡辺氏だった。続いて姿を現したのは丹羽雄哉・自民党政調会長代理(55)と、公明党の坂口力・政審会長(65)の二人。丹羽氏は当時公明党との連立に反対する一派だと思われていたため、かなり意外な組み合わせだった。そしてさらにその後に登場したのは、何と秋谷栄之助・創価学会会長だったのだ。 大手新聞のドンと公明党を動かす創価学会の会長、そして公明との連立に反対する立場の自民党幹部と公明党の大幹部──こんな顔ぶれが、料亭で何を話し合っていたのだろうか。本誌は渡辺氏を直撃したが、一切語ろうとはしなかった。この密談の翌月の10月5日に、それまで野党だった公明党は自民党と自由党との連立政権に参加した。渡辺氏の存在の大きさを改めて示す形となった。 ◆渡辺巨人軍オーナー「1リーグ制」野望の全過程(’04年7月30日号) ’04年7月12日の夜、都内のホテルのレストランで食事を済ませた渡辺氏に、20人あまりの記者とテレビクルーが球界再編についてコメントを求めるようとした。すると、渡辺氏は読売新聞社員を盾にして取材を拒み、こう叫んだという。 「野球を破壊しようという陰謀に利用されるのにはもうまっぴらだから、今後、いっさいしゃべらん!」 実は球界再編問題に「オーナー側との話し合いを要求する」とプロ野球選手会長のヤクルト・古田敦也(38)らがオーナー主導の改革に反発。それに対して渡辺氏が「分をわきまえにゃならんよ、たかが選手が」と発言したと9日に報じられていたのだ。もちろん、この発言は世間から大ひんしゅくを買い、読売新聞には抗議の電話が殺到したという。この事態を招いたのは、マスコミのせいだと渡辺氏はヘソを曲げてしまったようだ。 ◆渡辺恒雄・巨人オーナー「涙の電撃辞任」の全真相暴く(’04年9月3日号) ’04年8月8日、長野県・軽井沢プリンスホテル敷地内のゴルフ場では渡辺氏をはじめとする読売新聞社首脳陣のコンペが行われていた。ラウンド中、ときおり葉巻をくわえながらリラックスした様子の渡辺氏と対称的に、同じ組の白いハットをかぶった読売新聞東京本社社長の滝鼻卓雄氏(65)は緊張を隠せない面持ちだった。 この5日後の8月13日に、渡辺氏はオーナーを辞任した。それは、ドラフト有力候補の大学生に現金200万円を渡していたことが発覚したため、その責任をとってのことだったのだが、このコンペのときにはすでにオーナーの座を滝鼻氏に譲ることが決まっていたのだった。 これ以外にも、本誌は渡辺氏について数多の取材をし、報道してきた。渡辺氏は体調を崩す11月末までは出社していた。亡くなる数日前にも社説の原稿に目を通すなど、最後まで主筆の職務を続けていたという。一ジャーナリストとしてはあまりに大すぎる力を持った渡辺氏。心から冥福を祈りたい──。
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