槇原敬之の名曲に50代の今また涙。「世界一素敵な恋」なんてないと知る私が気づいた夫婦の可能性【小島慶子】
エッセイスト・小島慶子さんが夫婦関係のあやを綴ります。 インスタで相互フォローしている人がお気に入りの万能タレを紹介している投稿を見たら、涙が止まらなくなった。タレがすごいからじゃない。BGMがマッキーの『No.1』だったからだ。マッキー、そう槇原敬之、私の青春のBGMである。 マッキーが歌っている「世界一素敵な恋」がどんな恋かなんて未だに私は知らない。だが、20代の私はそういうものがありそうな気がしていた。世界ってまあ言ってみれば自分の脳みそなわけで、自分史上最高の恋がしたいという望みは誰しも抱いたことがあるだろう。 で、例のタレのインスタ投稿を見ながらポタポタと涙が足に垂れたのは、もう世界一を目指すことができないと思い知ったからだ。私にはもう「次」はない。その底抜けの寂しさよ。これがみうらじゅんのいう“老いるショック”か。明るく「老いるショ~ック!」と笑う余裕が欲しい。 歌を聞いて反射的に思い浮かんだのは夫の顔だったけど、ええとちょっと待てよ、この曲が発売されたのは93年だから、まだ夫とは出会っていない。とすると最初にこの曲を聴いたのは、誰と付き合っているときだったんだ?
みんな、世界一ではなかったけれどいい人であった
当時は誰かと付き合うたびにこの曲を聴いていたから、93年以降の全元彼との思い出の曲なのだ。そしてそれは全員が世界一ではなかったことの証左なのだが、しかしみんな、いい人であったことよ。多分8人くらいだと思うが、その中で私を殴った人はいなかった。わかっている限りでは、浮気をした人もいなかった。わかっている限りでは、風俗通いがやめられなかったりギャンブルで借金を作ったりしている人も酒乱もモラハラ男もいなかった。みんな、いい人だった。それは多分、結婚しなかったからだ。彼らを深く知り過ぎる前にお別れできたから、彼らは記憶の中で永遠にいい人であり続ける。 結婚したらきっと、みんな何かしら事故物件だったはずだ。それは彼らが人間だからだ。元彼陣にとっても、もしかしたら私は青春の思い出の一部として脳内でちょっといい感じに映像加工されているかもしれないが、もし結婚していたらやっぱり事故物件女だと判明しただろう。私も生身の人間だからだ。 誰の胸の中にも、傷ついたり壊れたりした過去が眠っている。夫婦になるとそれを持ち寄って晒し合うことになる。押し入れからミイラが転がり落ちてくる。毎晩お化けが出る。事故物件と知っていれば結婚しなかったのに! と悔やむことになる。子育てなんかした暁には、日々百鬼夜行の合戦である。もしも人物版「大島てる」を作ったら、もう一人で生きていくしかないと思うだろう。で、自分の名前も載っていることに気づくのだ。 マッキーの曲が切ないのは、夫がクソ野郎だったからだ。正確にいうと、クソ野郎でもあった夫を知る羽目になったからだ。知らずにいたかった。死ぬまで知らずにいたかった。多分『NO.1』を聴きながら彼と付き合っていた20代半ばの頃は、これがついに世界一素敵な恋になると思っていたんだと思う。なんで他人事みたいに書いているかというと、恐るべきことにもう記憶が曖昧だからなのだ。 たった四半世紀で記憶があやふやになるんだから、人類の歴史なんてほとんどが誰かのうろ覚えの記憶の集積である。釈迦が入滅して100年も経った頃に「そういえばあの人はこんなことを言っていた」なんて誰が正確に思い出せようか。単なる「マイ釈迦メモリー空想版」じゃないか。しかし肝心なのは釈迦が実際何を言ったかよりも、人々がなぜそれを今のような形の物語として語り継いできたかであって、そこにこそまさに釈迦が向き合ったであろう普遍的な人間の生きる苦しみが表れているといえよう。いや、今は釈迦ではなくマッキーと夫の話だ。違う、私の記憶の話である。恋はいいものに思えた。あの時は、確かに。