戦後ダムに消えた倉敷集落 今は憩いの場に【わがまちLink41】
県内の各市町村を回るわがまちLink41。今回は本島中部、倉敷ダムの魅力に迫る。 沖縄自動車道沖縄北インターチェンジ付近沖縄市とうるま市またがる倉敷ダムは、水と緑に囲まれた自然豊かな空間で、日本のダム湖100選にも選ばれている。取材班が現地を訪ねると・・・ 【写真を見る】戦後ダムに消えた倉敷集落 今は憩いの場に【わがまちLink41】 ダムを訪れていた子ども 「小さな魚がいる!」「(水が)海よりも冷たい!」「泳いだり、友だちと水をかけたりして遊んだ」「寒くない!」 ゴールデンウィーク期間中も、多くの子どもたちで賑わった倉敷ダム。遠足や、 休日の行楽地として人気のスポットになっている。今回取材班が話を聞いたのは、倉敷ダムの主任技師を務める知念光さん。校外学習に訪れる小学生にも案内していることを優しく教えていただいた。 知念光さん Q.どれくらいのお水が貯められているんですか? 「今日(取材した5月1日)時点で貯水率が61.4%。100%の時は、710万立方メートルの水を蓄えることができます」 Q.710万立方メートル!どれぐらいなんですか。それは? 「25mプールで1万800個分です」 県内でも、7番目の大きさを誇る倉敷ダム。本島北部・ヤンバルの4つの河川から取水し、ダムに取り込んでいるという。ダムの大きな役割は3つ。大雨時の洪水の調節。河川の維持。そして、日々私たちの生活に欠かせない水道用水の供給だ。倉敷ダムは1日5万600ミリ、15万人分の生活用水を供給している。 ■「倉敷」の名はダムに沈んだ集落が由来 ダム内には、子どもたちが水遊びを楽しめるエリアや貯水池の全景を見ることができる高さ41mの展望タワー、そして水の性質を知ることが出来る資料館などもあり、水と戯れ、学ぶことができる施設が揃っている。県民にとっても、憩いの場。この場所に、意外な歴史があった。 Q.倉敷ダムという名前になったきっかけは? 知念光さん 「ここに昔、「倉敷」という集落があったんですが、そこに米軍が「瑞慶山ダム」というダムを造ったんです。元々あった集落の方々などから倉敷という名前を残してほしいという要望がありまして、名前を「倉敷ダム」としております」 今年3月。貯水量が低下し、水位の下がったダムの水面から現れたのは、「ウヮーフール」の遺構。(「豚小屋のトイレ」を意味するしまくとぅば) それは、かつてこの場所に人々が確かに暮らしていた営みの跡だった。 130年前、首里を追われた旧士族らが、苦労の末に開墾したという倉敷集落。沖縄戦で空襲を受け、戦後はアメリカ軍が駐留。倉敷集落の人々は、ふるさとに帰ることができなかった。 そして1961年、米軍により、倉敷ダムの前身「瑞慶山ダム」が造られたことで、集落はダム湖の底へと沈んだ。