《記者コラム》 演歌の女王とブラジルの歌姫の密かな交流 「八代亜紀さんは日本の姉妹」
「本当にショックを受けました。昨日は一日中、彼女との思い出に浸っていたの」
「昨日、八代亜紀さんが亡くなったのを知って、本当にショックを受けました。昨日は一日中、彼女との思い出に浸っていたの。まるで〝日本の姉妹〟のように思っていました。今でも気が動転しています」―10日、日系社会を代表する往年の名司会者で歌手の三宅ローザさん(78歳、2世)に追悼の言葉を尋ねると、眼を潤ませながらそう答えた。普段は米国フロリダに在住するローザさんだが、たまたま帰国していた。 前日9日付NHKニュースでは、《「雨の慕情」や「舟唄」などのヒット曲で知られる歌手の八代亜紀さんが12月30日、都内の病院で亡くなりました。73歳でした》などと報道され、ブラジル日系社会にも強い衝撃を与えていた。 というのも、八代さんが全盛期の1983年3月、日本移民75周年記念のサンパウロ市公演をアニェンビー国際ホールで成功させていたからだ。3日間、各2公演で計1万5千人が入場した。 サンパウロ公演を主催したのは奥原プロダクション(奥原マリオ社長)で、地上波テレビで毎週「イマージェンス・ド・ジャポン(以下IMJ)」という日系社会の超人気番組を制作していた。その社長夫人で、同番組の司会兼歌手をしていたのがローザさんだ。
八代さんは1979年に新境地を開いた男歌「舟唄」が大ヒット、翌1980年に発表した「雨の慕情」で日本レコード大賞、この2年間連続で紅白歌合戦の大トリを務め、〝演歌の女王〟と呼ばれ始めた頃だ。この2曲はまさに代表曲となった。 一方、ローザさんは司会をやる以前、1960年代には歌手として幅広く活躍しており、ブラジルの人気音楽番組『ジョーヴェン・グアルダ』の常連出場者で、「a bonequinha da Jovem Guarda(ジョーヴェン・グアルダのお人形)」として若者層に絶大な人気を博していた。また、1967年にTVTupiでドラマ『Yoshico, um Poema de Amor(ヨシコ、愛の詩)』で主演を務めたブラジル初のアジア系女優としても注目を集めた。 この「ジョーヴェン・グアルダ」は単なる番組名だけでなく、ブラジル人若年層の音楽を中心とした文化運動を示す言葉となった。当時世界的に高まっていたプロテストソングの流れを汲み、1965年から始まった軍事政権への暗黙の抵抗という側面が強かった。 70年代、同じく奥原マリオ社長が経営していたラジオ・サントアマロでは、ジョーヴェン・グアルダの中でも突出した人気を誇った歌手ロベルト・カルロスを出演させ、その際にローザさんが「SUKIYAKI」(坂本九の「上を向いて歩こう」)を日本語で歌うように指導したという逸話も残っている。 ローザさんは日系社会だけではなく、ブラジル社会全体で人気を勝ち取った最初のアジア系歌手として多くのブラジル人の記憶に残っており、引退した今でも強い存在感を保つ人物だ。