吉田拓郎が音楽シーンに残した功績とは? みのミュージックとフォーライフミュージック・後藤豊が語り合う
吉田拓郎のベストアルバム『Another Side Of Takuro 25』が2024年6月12日にリリースされた。 【写真】みの×フォーライフミュージック・後藤豊の撮り下ろしカット デビュー年の1970年から1999年までの約30年間、エレックレコード、CBS・ソニー、フォーライフから発表された作品の中から吉田拓郎自身が25曲をセレクト。さらにボーナストラックとして、加藤和彦との共作による「純情」も収録されている。ブックレットには拓郎自身が執筆したセルフライナーノーツやさまざまな年代の写真を掲載。ジャケットのアートワークは、アルバム『元気です。』のジャケット写真で知られる田村仁氏の作品にグラフィック処理を施したものが使用されている。 まさに吉田拓郎の“アナザーサイド”を追体験できる本作。この作品のリリースに際し、フォーライフミュージックの代表であり、70年代から吉田拓郎と活動を共にしてきた後藤豊、そして、ミュージシャンであり、YouTubeチャンネル「みのミュージック」での音楽評論でも注目を集めている動画クリエイター・“みの”の対談を実施。日本のポピュラー音楽に多大な影響を与え続けている“吉田拓郎”、その時代背景について語り合ってもらった。 ・今回のベストアルバムは“裏ベスト”に近い ーー吉田拓郎さんのベストアルバム『Another Side Of Takuro 25』がリリースされました。拓郎さん自身が“こんないい曲もあるんだよ”という観点でセレクトした楽曲が収められています。 後藤豊(以下、後藤):拓郎は一昨年に引退を表明しましたが、フォーライフからも区切りになる作品を出してほしいと思っていたんです。僕としてはコンプリートベストみたいなもの、完全版・保存版になるようなものを作りたかったのですが、本人から「自分が好きな曲、聴いてほしい曲を選曲したい」という話がありました。こちらとしても拓郎自身が気持ちよく関わってくれることがいちばんなので、「それでいきましょう」と。それが去年の夏くらいですね。 みの:なるほど、そうだったんですね。 後藤:僕らができることは拓郎が思いを持ってくれることと、音を良くすること、あとはアートワークですね。今回のベストのジャケットは『元気です。』のグラフィックを参考にしているんです。『元気です。』のジャケット写真を撮った田村仁さんにも協力していただき、ブックレットにいろいろな時代の写真も掲載したりと、かなり時間をかけて制作しました。 みの:素晴らしい。僕自身もそうですが、後追いの世代にとっては、これまで知らなかった拓郎さんの一面がわかるベスト盤に仕上がっているなと思います。 後藤:ありがとうございます。ポピュラリティのある楽曲も何曲か収録されていますが、基本的には“裏ベスト”という感じだと思いますね。僕も「どういう曲を選んでくるんだろう?」と楽しみにしていたのですが、1曲目(「どうしてこんなに悲しいんだろう」)からビックリしました。 みの:ミュージシャン自身、作り手自身が自ら選曲しているベストはちょっと肌触りが違いますよね。今回の拓郎さんのベストも1本芯が通っているような感覚があります。 後藤:そうですね。拓郎は何十年もキャリアを重ねているし、みなさんが彼のキャラクターをどう捉えているかはわかりませんが、僕から見るとものすごく正直な男なんです。多少脇が甘いところがあるというか、言わなくてもいいことを言っちゃうことが何度もあったんですが(笑)。正直というのはアーティストとして素晴らしいことだと思うんですよ。“嘘がない”といいますか。今回のベストのなかには皆さんがあまりご存じないような歌も入っていると思いますが、ぜひ聴いてみてほしいですね。 ・みのミュージックが位置付ける「吉田拓郎」 後藤豊から見た「吉田拓郎」 ーーみのさんは“吉田拓郎”という存在を日本のポピュラーミュージック史のなかでどう位置付けているでしょうか? みの:それまでの慣例や慣習を打ち破って、自分のやりたいことを実現してきた方ですよね。拓郎さんほどグラウンドブレイキングな人は、国内では前例がない気がします。今回の取材のために拓郎さんのキャリアを改めておさらいしたんですが、「ビートルズのドキュメンタリーみたいだな」と思って。ビートルズは作品と実際に起きたことがセットになってるところがあると思うんですが、拓郎さんもそんな感じがするというか。僕自身も動画クリエイターというアウトサイダー的なところにいるせいか、勝手に共感しちゃうんですよね。「この生き方、めっちゃカッコいいな」と。 ーー音楽性も活動スタイルもそうですが、たしかに既存の価値観を打ち破ってきた印象がありますね。 後藤:そうですね。僕が初めて拓郎を観たのは、1970年の新宿厚生年金のコンサートだったんです。そのときに「イメージの詩」を聴いて。「これこそはと信じれるものが/この世にあるだろうか」なんてことを歌う人がいるのか、と驚いたんですよ。当時は70年安保闘争もあったし、大学の授業もなくて。そういう時期に拓郎に出会ったんですよね。 みの:僕は実際にその時代の空気を吸ってないので解像度はだいぶ粗いんですけど、拓郎さんの登場によって、それまでのフォークが持っていたプロテストソングっぽい雰囲気が薄れてきたのかなと。そこから上村一夫の「同棲時代」の世界観とつながっていくというか。 後藤:そういう流れもたしかにありますね。当時の学生のほとんどは四畳半とか三畳の部屋に住んでいたし、喜多篠忠さんの(作詞による)「神田川」のイメージもあるのでただ個人的な観点で歌うときの切り口は(アーティストによって)それぞれ違いますし、そのなかで社会や政治との関わり、家族のことなどを表現していたんだと思います。まだ殺伐とした時代でしたからね。これは僕の個人的な体感ですが、学生時代、新宿の歌舞伎町で朝まで飲んで、朝6時くらいに伊勢丹の前あたりを歩いていたら、ネクタイをした男性2人に肩を叩かれたんですよ。何かと思ったら「こんな時間に出歩いているなら、自衛隊に入らないか?」と。高田渡の「自衛隊に入ろう」という曲はリアリティがあったんですよ。 みの:すごい話ですね。いまのお話を聞いて、「自衛隊に入ろう」をより深く聴けるような気がします。 後藤:そういう時代の雰囲気もありつつ、意外と楽しくやっていたんですけどね。拓郎は当時、高田渡や遠藤賢司とも仲が良くて。急にライブができなくなって、遠藤賢司さんに「代わりにやってくれない?」と連絡したこともありました。まだのんびりした時代でしたね。 ーーそれにしてもすごい名前がどんどん出てきますね。拓郎さん、高田渡さん、遠藤賢司さん。70年代に登場したフォークシンガーは、確実に日本の音楽の流れを変えたと思います。 みの:ミュージシャンの自主性の獲得ということで言えば、グループ・サウンズは“半・自立”みたいな感じだったと思うんですよ。自分の足で立ったのは、フォークが最初だったのかなと。 後藤:グループサウンズは芸能界とのつながりが強かったですからね。才能のある人はいっぱいいたんだけど、出てきた時代が不運だったというか。こんなことを言うと怒られるかもしれないけど(笑)。 みの:拓郎さんに関して言えば、実は音楽性も幅広いですよね。フォークという言葉が先行している感がありますが、その枠だけで語るのは惜しいと言いますか。ベストにも入っている「裏街のマリア」のR&B、ファンク路線もそうですが、和モノ・レアグルーヴ的な光の当て方もできるのかなと。 後藤:「裏街のマリア」は後藤次利さんのアレンジですね。もともと拓郎はR&Bなども好きで、広島時代のバックバンドがダウンタウンズという名前でそういうイメージがあったのではないでしょうか。本人はフォークというカテゴリに収められることすら嫌がっていたんですよ、じつは。生ギターと歌で登場したので、そのイメージが強いのかもしれないですが、僕らとしてももっとロック的なニュアンスを含めて受け取ってもらえたらなと思っていました。 みの:レゲエへの反応もすごく早かったですよね。おそらく国内最速レベルだったのではないかと思います。 後藤:レゲエは加藤和彦さんの影響でしょうね。加藤さんは泉谷しげるにもレゲエをやらせてましたから。(「君の便りは南風」1973年)後になって「あれはすごかったな」と思うことも多いですが、渦中にいるときはそうではなくて。明確なフィロソフィーやイデオロギーを持っていたわけではないし、若気の至りというところもありましたから。 ーー今回のベストには入っていませんが、名曲「結婚しようよ」も加藤和彦さんの編曲ですね。 みの:それもすごい話ですよね。 後藤:「結婚しようよ」をリリースした年に、四角佳子さんと結婚したんですよ。軽井沢の教会で結婚式を挙げたんですが、マスコミが大勢来ましてね。当時は芸能マスコミに寄り添う気持ちなんて毛頭なかったので、大変な状況でした。 みの:ジョン・レノンみたいですね(笑)。女性ファンのデマによって動けなくなったこともありましたよね? 後藤:ありましたね。金沢でとある事件に巻き込まれ、拘束されましてね。ライブが中止になったり、大きなダメージを受けました。拓郎自身もひどく傷ついたと思います。我々は大手プロダクションに属していたわけではないし、マスコミにも好きなようにやられましたよ。 みの:そういう不運な出来事も突破しながら活動を続けてきた、と。流石です。 ーー今回のベストアルバム『Another Side Of Takuro 25』は、フォーライフからのリリース。1975年6月に小室等さん、吉田拓郎さん、泉谷しげるさん、井上陽水さんが設立した「フォーライフレコード」は業界を震撼させた出来事でした。 みの:それまでの業界の在り方にケンカを売ったというか。すごいことですし、いろいろなご苦労があったと思います。 後藤:そうですね。ビートルズが設立したレーベル「アップル・レコード」の歴史を紐解くと、「ウチの会社と同じようなことがあったんだな」と思います。フォーライフは「私たちに音楽の流れを変えることができるでしょうか?」と大上段に構えて出発したのですが、現実的な問題にいくつもぶち当たりました。当初は「レコード店がレコードを扱ってくれないかもしれない」という状況だったんですよ。もしそうなったらコンサート会場で売る、あとは全く異なる流通を使うことを考えていたんですが、ニッポン放送やポニーキャニオンの代表を務めた石田達郎さんが「それはまずいだろう」と救いの手を差し伸べてくれて、迎え入れていただきました。当時、ディストリビューションを他に任せていたレコード会社はほとんどなかったですからね。流通や営業の仕事はクリエイティブに携わっている人間には無理だという認識もありましたし。 ーー日本の音楽シーンにおいては、まさに前代未聞ですよね。 後藤:70年代の初めにアメリカに行った経験も大きかったんですよ。拓郎から「ザ・バンドとツアーをやりたい」という話が出て、まずは現地に行ってみるしかないということになって。ニューヨーク州郊外までマネージャーのアルバート・グロスマンを訪ねたんです。 彼はザ・バンド、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリー、ジャニス・ジョプリンなどのマネージメントをしていたんですが、そこでいろいろと話をして。ザ・バンドの来日は残念ながら実現しなかったんですが、向こうのレーベルの人たちとも話をして、「クリエイティブサイドだけを担って、ディストリビューションを任せる方法もある」ということを教わったんです。帰国後、それを小室等さんに話したところから(フォーライフ・レコードの設立が)スタートしたんじゃなかったかな。 みの:ザ・バンドと拓郎さんのツアーは叶わなかったけど、ビジネス的なアイデアを持ち帰ったと。面白いですね。 後藤:ウッドストックの会場も見たんですよ。何もない広大な原っぱですけど(笑)、「ここに40万人集まったのか」と。それが“つま恋”(1975年に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」)につながったんです。余談ですが、ジャニス・ジョプリンのサイケデリックなポルシェ356も見せてもらったんですよ。写真を撮っておけばよかったと、それだけが残念です(笑)。 みの:ホントですね(笑)。 後藤:もちろん行ってよかったですけどね。泉谷がロサンゼルスの(名門ライブハウス)トルバドールで公演してライブアルバム(『HOT TYPHOON FROM EAST (イーストからの熱い風)』)を作ったときもそうでしたけど、行かないとわからないことがたくさんあったので。なのでいまの若い人にも「どんどん海外に行け」と言ってるんです。いまは日本の音楽がリスペクトされたり、憧れを持たれているんだから、こっちからも出て行って、現実を見ることで「だったらこういうことができる」ということもわかるはずなので。サブスクの恩恵も大きいですね。マイナスの要素もたくさんありますが、それ以上にプラスの要素があると思っています。 ・吉田拓郎が“いまのアーティストに与えた影響”と“社会的なメッセージ” ーー吉田拓郎さんの音楽がいまの世代のアーティストに与えている影響も大きいのでは? みの:いわゆる“字余り”的なソングライティングがそもそも拓郎さん由来じゃないですか。いまの作り手の方々がどれだけ意識してるかはわかりませんが、拓郎さんのDNAは非常に幅広く浸透していると思います。 ーー拓郎さんも高く評価しているあいみょんも、吉田拓郎の音楽を受け継ぐ一人かもしれないですね。菅田将暉の父親が拓郎さんのファンという話もありますし、いろいろな人につながっているなと。 後藤:拓郎は作曲家としての才能も素晴らしいですからね。その一つが「襟裳岬」(1974年)ですよね。ソルティー・シュガーのメンバーだった高橋隆がビクターのディレクターをやってて、「森進一に曲を書いてくれませんか?」と依頼があったんです。その頃の拓郎は、さきほど話に出ていた金沢のトラブルがあって、かなり暗い状況だったんです。そういう時期に話をくれたことも含めて「やってみたらどうか?」と持ち掛けたら、本人も「面白いかもね」と。そこで岡本おさみさん(作詞)と組んで書いたのが、あの名曲なんです。まさに捨てる神あれば拾う神ありですね。 ーー「襟裳岬」は1974年のレコード大賞を受賞。昭和の歌謡を代表する楽曲になりました。 後藤:拓郎が提供した曲は、トータルで言えば拓郎節なんですが、メロディラインの作り方が非常に秀逸なんです。ただ当時は(他のシンガーへの楽曲提供は)シンガーソングライターやフォークの流れでは前例が無かった。拓郎はその先駆者でしたね。 みの:それもいまでは当たり前のことですけどね。拓郎さんは作詞家としても達人の域なのに、共作も多いじゃないですか。それも面白いところだなと思います。松本隆さんとガッツリ組んだ「ローリング30」(1978年)というアルバムもあって。 後藤:拓郎や陽水は他人の歌詞を歌うことを厭わなかったんですよね。誰が書いたものであっても、いいものは受け入れるという姿勢だったと思います。 ーー今回のベストアルバムに収録された楽曲もそうですが、拓郎さんの楽曲には時代を越えた魅力があると思います。その理由はなんだと思いますか? 後藤:いくつかの要素があるでしょうけど、そもそもシンガーソングライターは、人になにかを伝えたいから曲を書き始めると思うんですよ。生業になればいろいろな状況に対応しなくてはいけないし、理想だけではやれないところもあるでしょうが、“人に伝える言葉を紡ぐ”ということは変わらない。拓郎もそうだと思います。今のシンガーソングライターを見ていると、必ずしもそうじゃないところもあるんだろうなと感じますけどね。音楽性だったりリズムを含めて曲を作っていると言いますか。言いたいことがあっても言わない人もいるだろうし。 ーー「社会に対して言いたいことはないです」と明言するアーティストもいますからね。 みの:そうですよね。平成に生まれていまの時代に音楽に関わっている自分としては、たしかに「思っていることを言いにくい時代ではあるな」というところもあって。「それを言ってしまったら仕事がなくなる」という無言の圧の中でやっていると言いますか。 後藤:抑圧されていないアーティストが珍しいくらいですよね。そういえば先日、COMPLEXの東京ドーム公演(令和6年能登半島地震」の復興支援を掲げて5月16日、17日に行われた東京ドーム公演)を観たんですが、彼らは偉いなと思いました。戦争もないこの国で、歌だけ歌っている人が多いなかで、この国の一大事に、ああやって立ち上がるわけですから。COMPLEXのライブは2011年以来なので、大変な労力ですよ。いろんな人の気持ちによってライブにこぎつけて、おそらく10数億円のドネーションになる。お客さんも80年代の残像を求めるだけではなく、ドネーションライブに参加した自分を確認できるし、音楽が多くの人に影響を与えて、時代を作っていく素晴らしい形だなと。ああいう人達を見ると「まだまだ日本もなんとかなりそうだな」という気がしますね。なので「言いたいことがない」といういまのアーティストの皆さんも、もうちょっと踏み込んでみたらどうですか? と。もちろんどこまで動くかはやり方は人それぞれだと思いますけどね。 ーー拓郎さんの曲のなかにも社会的なメッセージを含んだものが数多くあります。ベスト盤に収録されている「ペニーレインでバーボンを」にも「気持の悪い政治家どもが 勝手なことばかり言い合って/時には無関心なこの僕でさえが 腹を立てたり怒ったり」という歌詞があって。 みの:それはいまのリスナーにも響くラインですね。 後藤:一つひとつの楽曲についてはなかなか言えないんですが、拓郎、陽水は「個人的なことを歌っているな」という曲のなかにも、自分自身と世の中、あるいは自分たちがいまいる場所や時代との関わりについて言及しているものが結構あるんですよ。 みの:僕は自分の本のなかで陽水さんの「傘がない」を“政治色がない、叙情派フォークの流れの起点”みたいな感じで位置付けたんですが、「あの曲は政治的だろう」とういう声をいただきまして。確かに捉えようによっては、社会悪みたいなものに対する怒りを表現した歌でもあるのかなと。 後藤:陽水に聞いたことがないのでわからないですが、逆説的に世の中に言いたいことがあったのかもしれないですね。 ーー「結婚しようよ」も“政治的なことから個人的な歌への転換点”と言われますが、〈僕の髪が 肩までのびて〉という歌い出しは、反体制的な感じもあって。 みの:髪の長さというのは、60年代後半から70年代のアメリカの音楽でも頻出のテーマなんですよね。クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの「カット・マイ・ヘア」はまさにそうで、”もう少しで髪を切るところだった”とデヴィッド・クロスビーが暗い声で歌ってるんですよ。髪を伸ばすか切るかは、やっぱり何かのシンボルだったんでしょうね。 後藤:ユーミン(荒井由実)の「『いちご白書』をもう一度」(歌唱/バンバン)にもそういうくだりがありますね(「就職が決まって 髪をきってきた時/もう若くないさと/君にいいわけしたね」)「結婚しようよ」もそうですが、その時代を反映しながらも、今のずっと残っていて。ヒットして2~3年で終わるのか、 何十年経っても聴かれる曲なのか。そこにはやはりなにかがあるんだろうと思います。 みの:拓郎さんの場合は再評価というより、どの時代も先頭を切って走ってきた印象があって。当時は売れなかったマニアックな作品が後から評価されることもありますが、拓郎さんは尖ったことをやり続けながら、ヒットもさせたという意味でも稀有な存在だと思います。 ーー拓郎さんは歌手活動からの引退を表明し、2022年にラストアルバムと銘打って『ah-面白かった』を発表しました。もう新しい曲の可能性はなさそうですか……? みの:一番気になるところですね。 後藤:僕が言うことではないですが、最近のいくつかの発言を含めて「もう十分やった」という思いもあるような気がしますね。 みの:そうですか……。拓郎さんは以前、「ジョン・レノンが亡くなった年齢(40歳)までは歌う」と話していらっしゃいましたよね。もちろん拓郎さんご自身の自由なんですが、「ポール・マッカートニーの年齢まで歌ってほしい」という気持ちもあります。 後藤:なるほどね(笑)。 みの:ファンの意見ですけどね(笑)。今日は貴重な話を間近で聞けて楽しかったです。ありがとうございます。 後藤:いえいえ。墓場に持って行ってもしょうがない話と、絶対に言えない話があるんですけどね(笑)。
森朋之