【プレイバック’93】日本バレー界初のプロ宣言か? 大林素子が揺れていた"3億円"オファー
10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。今回は30年前の’93年12月3日号掲載の「母親は大乗り気 直撃!女子バレー大林素子は『3億円でプロへ行くの?』」をお届けする。 【思わず二度見】すごい…周囲の人も振り返る大林素子の美スタイル ’88年ソウル、’92年バルセロナと2大会連続でメダルを逃すこととなった日本女子バレーボール。大林素子(当時26)は2大会ともに日本のエースアタッカーとして活躍した。彼女は世界のトップクラスのリーグで活躍する選手を擁する海外との力の差を痛感し、『プロ選手として活動したい』と思うようになったという。そんなときにプロへの移籍話が持ち上がったのだった。 ◆「私にこんなチャンスがあれば入りたいと思いますけど」 ’93年11月9日、香港で世界初の「多国籍女子プロバレーチーム」が旗揚げされた。選手兼監督に中国の国民的英雄・郎平を迎え、バルセロナ五輪で優勝したキューバのエース、ルイスなど、世界中から有力メンバーを集めたドリームチームだった。 このチームのスポンサーとなったのは、当時16ヵ国に百貨店を構えるなど流通業界で存在感を示していたヤオハングループ。当然、大林にもオファーがあり、ヤオハンが提示した契約金は3億円と言われた。果たして大林は女子バレー界初のプロ入り宣言をするのか。世間が注目する中で、大林の「プロ入り」を示唆するような出来事が起こる。当時の記事は次のように伝えている。 《『ヤオハン・インターナショナル』結成式、そして11日の『ヤオハン3周年記念パーティ』にも、スペシャルアドバイザーとして名を連ねる山田重雄日立総監督と、大林の母・弘子さんが出席していたから「これはいよいよ」と誰もが思ったのは当然のこと。しかも山田氏は「バレーがメジャーになるために、大林にはもっと高い次元で考えてほしい」と発言。パーティの席では弘子さんも、「私にこんなチャンスがあれば(ヤオハンに)入りたいと思いますけど」と大いに乗り気の構えを匂わせた》 だが、この母親の発言に対し、大林はスポーツ紙で「私の気持ちをわかっていない」と反論するかのようなコメント。大林の真意を聞くために本誌は全日本チームで合宿中の彼女を直撃すると、大林は次のように語ったのだ。 《母と仲が悪いのかって? そんなことありませんよ。普通の親子です。でもあのコメントのことでは母に怒られてしまいました。ただ、ヤオハン移籍については私は私で自分の考えがあるし、母は母の考えがある。私は自分の考えを今はまだ外に出したくないんです。(最近)腰を痛めてしまって。今回のゴチャゴチャのせいで怪我をしたのかなあ》 だが、「契約金3億円は本当?」という本誌の質問に対しては苦笑して言葉を濁していたという。プロ入りについて語らないのは自分だけが他の選手から浮いて見られるのが嫌だからで、来春にはプロ入りするのではないか、と当時多くの関係者は見ていたようだ。 しかし、大林は最終的にこのオファーを断ることとなる。’94年秋からVリーグが発足する見込みで、その中にはプロ化構想もあったからだ。大林は「『日立でプロ契約できるならそれが一番』と思ったので、そのお話はお断りしたんです」と後に語っている。また、ヤオハンからのオファーは3年契約で5000万円だったとも明かしている。 だが、10月に発足したVリーグはプロ化されることはなく、プロ化をめぐるチーム内部のゴタゴタから、大林は日立を突然解雇されることとなってしまった。 それでもプロへの夢をあきらめなかった大林は’95年1月にイタリア・セリエAのアンコーナと契約することで、日本人初のプロバレーボール選手となったのだった。
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