「怪童」中西太氏、出雲に残るホームラン伝説 手掛かり探し真相を確かめてみた
当時の球場はセンターが深く120メートル程度あったが、レフトは80メートル程度と狭かったらしい。右打者の中西氏の打球は、レフトフェンスはもとより、住宅街の屋根を越えた特大のホームランだったようだ。時は1951年。川瀬さんは7歳で、見に行った記憶はないというが、評判になっていたという。 ちなみに、この球場ではオートレースやサーカスも開かれ、市民の娯楽の中心地だったようだ。「社会人野球も盛んで、週末ごとに試合があり、ボールボーイのアルバイトで稼いだもんよ」と、グループの別の男性が教えてくれた。 中西氏が本塁打を打ったのは真実のようだが、記録がほしい。中西氏の自著「西鉄ライオンズ 最強の哲学」(ベースボール・マガジン新書、ベースボール・マガジン社発行)を取り寄せ、読んでみると、高校3年時の招待試合について記述があった。 つづく