杉江松恋の新鋭作家ハンティング 狂騒的な『ハイパーたいくつ』と静的な『光のそこで白くねむる』
みんなちがって、みんないい。 申し訳ない。金子みすゞのいただきで始めてしまったのは、今回読んだ第61回文藝賞受賞作が、二作ともまったく違う作風なのにしみじみとおもしろかったからだ。 まったく違うのだが、どこかに共通するところがあるようにも感じる。それが何なのかわからず、首をひねりながら読んだ。 もしかすると二作のうちどちらかが芥川賞候補になるかも、と思ったので少し様子を見ていたら発表は過ぎてしまった。どちらもならなかったので両方まとめて紹介したい。松田いりの『ハイパーたいくつ』と待川匙『光のそこで白くねむる』である(共に河出書房新社)。 自分が読んだ順に取り上げる。松田『ハイパーたいくつ』の語り手〈私〉は、演劇や映像を制作する会社で財務まわりを担当するチームに属している。とはいえ、読んだ限りでは経理という正確さが求められる部門に適した性格とは思えず、また社会性という意味で通信簿をつけるなら間違いなく全科目2で、もしかすると1に振れるかもしれないという人材に見えるので、絶対何かまずいことになるだろうと思っていたら、「演劇用大道具の制作会社に本来の1000倍もの金額を支払う伝票」を通してしまったことが発覚する。彼女のチームリーダーはかなりできる人で、こんな失敗を犯した部下など一撃で葬り去ってもよさそうなものなのだが、なぜか彼女を庇ってくれる。そのために払った苦労は並大抵のものではないらしく、「齢50のチームリーダーの容貌は2ヶ月ほどで一気に80代に突入した」と〈私〉に形容されるほどなのだ。いや、そこは呑気に観察している場合じゃない。 〈私〉は実に後ろ向きな人間で常に自分の殻に籠っている。エンリーケ・ビラ・マタスが『バートルビーと仲間たち』(新潮社)で名付けたところの「バートルビー症候群」患者だ。ハーマン・メルヴィルの小説に出てくる、何を振られても「せずにすめばありがたいのですが」と辞退する消極性の塊みたいな登場人物から採られた命名だ。「せずにすめばありがたい」と〈私〉は他者との交渉も最小限にしようとするのだが、チームリーダーはなんとか彼女を共同体の中に巻き込もうとして、あの手この手で迫ってくる。あるときは〈私〉が職場に着てきたジャケットに目をつけ、勝手に羽織ってランウェイよろしくデスク上を練り歩くという50歳にあるまじきおどけ方をしてみせたほどだ。問題はそのジャケットが62万円もしたことで、〈私〉は一張羅の安否が気になってチームリーダーの好意どころではなくなる。そんなものを職場に着てくるな、という話なのだが。案の定悲劇が起きる。 〈私〉の行動はすべてがちぐはぐで、他人と同じ方向に進むことができない。自分の境界が確固としてあり、そこに踏み込まれることを極度に畏れるのである。バートルビー症候群患者と言ったが、努力をしないわけではない。訂正する。勤務時間中に人の目を盗んで仮眠をとる方法などは懸命に考えるのである。世界から自分を守るためならなんでもするが、他人に合わせることだけは絶対にできない、と言い換えよう。そうした人物の視点から見た共同体というものがいかに奇妙であるかということが〈私〉の論理で描かれていく。 作者は写実描写が巧みで、それをリズミカルな文章で綴る術を身に着けている。写実的なのだが、それはときどき超現実の域に達する。視点が〈私〉のものだからだ。世界に対して絶えず怯えの気持ちを抱いている〈私〉の眼に写る光景は常に自己弁護的に歪んでおり、自身の虞れを反映して攻撃的な改変を加えてくる。チームリーダーが示す厚情は、頑なな心を解きほぐすどころか、世界の果てまで彼女を逃亡させてしまうことになるのだ。 あまりにその逃亡の仕方がばかばかしく、何度も爆笑しながら読んだ。横隔膜を痙攣させながら読んだ純文学の新人賞というのもひさしぶりだ。 狂騒的な盛り上がりの『ハイパーたいくつ』と比べると、待井『光のそこで白くねむる』は非常に静的な小説に見える。題名からして午後の眠りのようだ。そうした優しい、柔らかい作品かと思って読み始めると裏切られる。物語の底に堆積したものは、むしろ本作のほうが禍々しい正体を隠しているのではないだろうか。 語り手〈わたし〉が飛行機に乗っている場面から始まる。〈わたし〉は十代まで過ごした〈土地〉を訪ねるところだ。十年前に上京してから一度も帰っていない。語り手の母も再婚して他県に住んでおり、もはや係累は存在しない。ではなぜ訪ねるのかと言えば、かつての級友である〈キイちゃん〉が若くして亡くなったということを十年前に聞かされ、そのままに放置していたという事情があるからだ。墓参りというあいまいな目的があるが、発作的な旅行である。勤務していた土産物屋が突如閉店になり、時間を持て余しているのだ。 〈わたし〉は十年前までの記憶を蘇らせながら、ところどころで〈あなた〉に語りかける。〈あなた〉とは〈キイちゃん〉だろう。しかし語りかけられれたキイちゃんは、〈わたし〉の回想をことごとく否定するのだ。そのやりとりはあくまで〈わたし〉の内部で起こっているものなので、世界は静かなままである。 あらすじということで言えばこれがすべてだ。〈キイちゃん〉によって暴かれる〈わたし〉のこども時代は、当人が回想するものとは大きく異なっており、不穏な空気に満ちている。しかし確からしさがどこかに担保されているわけではないので、両者の言い分を検証することはできない。〈わたし〉はいわゆる信用できない語り手なのだが、故意に嘘を吐いているわけではない。すべては曖昧で、遠いのだ。『光のそこでしろくねむる』ものとは輝きに遮られて輪郭さえ掴むことがない、〈わたし〉たちの過去の時間だろう。話が進めば進むほどに輪郭はぼやけていくのだが、細部は非常に精密に書かれているので、くっきりとピントは合っているのに全体像はハレーションの中に消えていくという不思議な視界を体験することができる。文章によって読者の意識は切り取られ、白くぼやけた街の風景の中に閉じ込められていく。 〈土地〉の風景が、これまた特徴的である。〈わたし〉と〈キイちゃん〉の対立が明確にされる前に読者は、そこが極めて単純な構造になっていることを知らされる。「谷底に走る線路を境に、一方は坂、一方は崖」。「駅から見上げると、なにか大きな怪物が積み木遊びをしたあとのような不安定な組成に見える」坂、ホームの一方がすでに高い崖になっていて、地層は「あきらかに複雑な力のぶつかりあい、混ざりあいの最中であることは模様からわかる」。 この坂と崖は、ほとんど観念の域にまで達した形で描写される。そのため読者は〈土地〉全体が抽象性を帯びたものとして認識するようになるはずだ。私はジョルジュ・デ・キリコの有名な絵画「通りの神秘と憂鬱」を連想した。輪回しで遊ぶ少女の前に坂道があり、誰かの影だけが見えるというあれだ。先を見通すことのできない坂、行き来を拒む崖は、〈わたし〉を巡る時間の断絶の象徴なのだ。坂を上りはじめた〈わたし〉は「記憶のなかの子供たちとすれ違う」。それはかつて、小学校の放課後に同じ坂を駆け下りていった、かつての自分たちでもあるだろう。断絶した時間の中で過去までが巻き戻された状態になって小説は終わる。 この二つの小説に似たところがあると思うのだ。視座、なのだろうか。『ハイパーたいくつ』の〈私〉は空間の中で世界を拒み、『光のそこで白くねむる』の〈わたし〉は時間の中で自分の居場所が消えていく状態を体験する。綺麗に対比しすぎると見えなくなるのかもしれない。単純化せず、ずっと考えていたいことだ。二作を読み比べて、小説の底から現れるものを掬ってみたい。そんな気持ちにさせられた。
杉江松恋