【連合艦隊こぼれ話】太平洋戦争を戦い抜いた艦艇のその後とは? 残存艦たちの足跡
日本海軍は、太平洋戦争勃発前の時点でアメリカ、イギリスの両海軍とともに世界三大海軍に数えられ、 保有する艦艇の隻数も錚々たるものだった。そして1945年8月15日の停戦時、それまでの死闘で日本海軍は多くの艦艇を失っていたが、かろうじて生き残った艦艇もまた存在した。そこでそれらの残存艦艇(サヴァイバー)のなかから、印象に残る艦について紹介してみたい。 ■戦艦「長門」 海軍軍縮条約が有効だったいわゆる「ネイヴァル・ホリデー」の期間中、世界に7隻しか存在しない40cm砲(長門型の場合は正確には41cm砲)を備えた戦艦として「世界のビッグ7(7隻)」に数えられた長門は、連合艦隊の旗艦も務め、当時の少年向け雑誌『少年倶楽部』新春号の付録のカルタに「陸奥と長門は日本の誇り」と詠まれるほど、同型2番艦の陸奥とともに国民に広く知られた存在だった。 戦時下の1943年6月8日、柱島泊地で謎の爆沈を遂げた陸奥の悲運に対して、長門は軽い損傷こそ蒙っていたものの、1945年8月15日の停戦時に残存していた。艦の整備状態もきわめて良好だったと伝えられる。 戦後、食糧不足解消のため捕鯨の再開が決まると、大洋漁業が第二復員省(前・海軍省)に船舶の借用を求めた。すると、第1候補として提示されたのが長門だった。その理由は、損傷が軽微という点はもちろんだが、民間に貸与すれば連合国の接収を免れ、敗戦処理のあとに戦艦1隻を日本に残せるかも知れないという思惑も働いたのではと推察されている。 だが大洋漁業としては、捕らえたクジラを容易に船上に引き上げられるよう、捕鯨母船のように艦尾にスリップウェイ(滑り台)を備えた第1号型輸送艦を求めており、長門ではなく、やはり残存していた同艦が貸し出された。 連合軍は、日本海軍の残存した艦艇を徹底的に調査し、それが終わると、その多くを海沈処分に付した。ところが長門は、原爆実験に供されることになった。アメリカは原爆の海洋爆発実験「クロスロード」作戦を準備しており、その被爆実験艦の1隻に選ばれたのだ。そして1946年3月18日、実験場とされたマーシャル諸島ビキニ環礁へと向かった。 1946年7月1日、「クロスロード」作戦の最初の爆発実験で、人類史上4番目となる原爆が爆発した。これは空中爆発実験だったが、長門はこの試練を耐えた。そして25日には海中爆発実験がおこなわれ、その直後には長門は浮かんでいたが、28日深夜から29日未明にかけてついに沈没。今日、ダイビングスポットとされているが、放射能汚染の問題で人間が触れることは許されていない。 ■砕氷型貨物船「宗谷」 1935年、北満鉄道讓渡協定によってソ連は北満鉄路(東清鉄道)を満州国と日本に売却。その代金の一部として、現物払いの形で砕氷型貨物船3隻を日本が建造し、それをソ連に引き渡すことになった。しかしその後、国際情勢の変化にともなって、ソ連に渡されることはなかった。この3隻のなかの1隻がソ連名ボロチャエベツで、日本の民間船舶会社で地領丸の名に改められて運用された。 1939年、日本海軍は地領丸を特殊な艦船として購入。艦名を宗谷に改め、艦種を雑用運送艦(砕氷型)に分類した。その後、太平洋戦争が始まると、宗谷も戦闘海域を航行。1943年1月28日にはアメリカ潜水艦の魚雷を受けたが、不発だったため九死に一生を得ている。その後も空襲などに何度もさらされたが、大きな損害を蒙ることなく終戦を迎えた。ほぼ無傷だった宗谷は、宗谷丸と改名のうえ復員船として活躍。何度かの航海に際して、船内で引揚者の出産が2度あり、ふたりの女児が生まれたが、ともに宗谷の一文字をとって「宗子」と命名されたという。 復員業務を終えると、宗谷丸は海上保安庁の灯台補給船となり、再び宗谷の船名に戻された。当時の灯台は有人で、補給のためにやってくる宗谷を、灯台職員とその家族は「灯台の白姫」や「海のサンタクロース」などと呼んだという。 その後、1957年から1958年に行われる国際地球観測年において、日本は南極観測に参加することを表明。砕氷船が必要となり、宗谷をその任に充てることにした。そしてエンジンの換装、耐氷能力や復元能力の強化、防寒設備や研究設備の充実、舵の換装、航空機搭載能力が付与された。特に後者は、まだ自衛艦も航空機を搭載できなかった時代に、宗谷はヘリコプター2機と水上軽飛行機1機を運用できた。 かくして宗谷は1956年の第1次観測から1961年の第6次観測まで南極に赴いたが、期間中には、氷海に閉じ込められかかってソ連の砕氷船オビの支援を受けたり、越冬の中止でタロとジロの物語が生まれたこともあった。新しい南極観測船ふじの就役後、宗谷は1962年に巡視船となって主に北洋で救難に活躍。「福音の使者」、「北洋の守り神」の愛称で呼ばれたという。そして1978年10月2日、ついに退役したのだった。 ■航空母艦「葛城」 1942年6月のミッドウェー海戦で、虎の子の空母4隻を一挙に失った日本海軍は、空母の生産に拍車をかけることになった。このような状況下、戦前に設計・建造された飛龍型をベースにして、改良と生産性の向上を盛り込んだ改飛龍型である雲龍型中型空母の増産が進められた。 その結果、ネームシップの雲龍、2番艦の天城、3番艦の葛城が竣工した。しかし空母と艦上機の生産はなんとかなっていたが、肝心の搭乗員の養成が損耗に追いつかず、結局、艦上機部隊の払底により、3隻とも実戦で艦上機を運用したことは一度もなかった。 そして雲龍は1944年12月19日にアメリカ潜水艦レッドフィッシュの雷撃を受けて戦没。天城は終戦間際の1945年7月28日、呉で空襲を受けて転覆。葛城だけが軽微な損傷のみで終戦を迎えた。 空母は、艦上機を発艦させる際に向かい風が必要となることもあって、元来が高速なので復員業務もスピーディーにおこなえるうえ、艦上機を収める格納庫甲板が広大で、居住性こそ劣悪ながら多数の復員者を収容するには最適だった。そのため、葛城は被爆により飛行甲板などを損傷していたものの、最低限の修理が施されて戦後の復員業務に従事。その後の1946年から1947年にかけて国内で解体された。
白石 光