映画史における『メイ・ディセンバー』の意義深さ 実話ベースの作品に対する“問いかけ”に
『レオン』について苦言を呈するようになったナタリー・ポートマン
ナタリー・ポートマンといえば、子役時代から映画業界で仕事を続けている俳優であり、13歳のときに演技をした映画デビュー作『レオン』(1994年)のマチルダ役で脚光を浴びている。その後、人気俳優となったポートマンは名門ハーバード大学に入学し心理学を専攻すると、大学時代は仕事を減らして学業を優先したのだという。その経験が、現在彼女が参加する社会活動への意識にもつながっていると考えられる。 2010年代以降、ポートマンは自身の仕事で性的な役割が求められることを問題視していることを公に発信し始め、とくに近年は映画デビュー作である『レオン』について、自分のキャリアを築いた重要な作品であることを認め感謝しつつも、作中で自身の役柄がセクシャルなものとして表現されていたことに苦言を呈するようになった。(※)ちなみに『レオン』が子どもに性的な要素を見出す作品であったことは、改稿前の脚本や『完全版』の内容で、より明らかなものとなっている。 ポートマンは、子役時代は夢中で役を演じていたものの、高度な教育を受け勉学に励み、大人としての視点を得て自分のキャリアを振り返ることで、そこに問題があったということに気づいたのである。そしてそれ以来、子どもの頃から業界に入ることのリスクをうったえるようにもなった。つまりポートマンは、ある意味で映画業界のグルーミングを受け、そのことに気づいたという見方ができる俳優なのである。 そんなポートマンが、チャイルド・グルーミングの要素のある題材を映画化にこぎつけようと尽力したというのは、偶然ではないだろう。だからこそ、事件におけるさまざまな点が不確定的に描かれる本作にあってなお、特殊な状況下で子ども時代を送ったジョーの心理については、かなり突っ込んで表現されているのではないだろうか。 しかし本作では、グレイシーの人間性を探ることがメインであったはずにもかかわらず、彼女については断定的な描き方を避けている。結局、グレイシーという人間の本質には到達できないのだ。そして、彼女を理解したと思い込んでいたエリザベスは、演技の迷宮に迷い込むこととなる。 このような趣向の裏には、これまでも作中の登場人物を複雑かつ繊細に描いてきたヘインズ監督が、対象を単純化して描きがちである映画界に対する反発心や、対象をできる限り人間らしい流動的でグラデーションのある存在であることを示そうとする、一種の誠意があることは言うまでもないだろう。 とはいえ、そういった映画づくりの課題は、「メイ・ディセンバー事件」に限らないというのも事実なのではないか。実話を基にした作品では、上映時間の都合上、どうしても単純化をしなければならないところがあるし、見立てが間違うことも当然あるだろう。 そもそも実際の事件を扱うこと自体に不謹慎な部分があるのだから、そういう道を選んだ時点で、事件に真っ正面から向き合って、単純化を経て伝えるべきテーマを提示することが映画には求められ、その内容の責任は監督や製作者が負うべきだと思えるのである。その意味では、今回のヘインズ監督のスタンスは、良く言えば繊細かつ野心的だといえるだろうし、悪く言えば腰が引けていると指摘することもできる。 だがどちらにせよ、本作『メイ・ディセンバー ゆれる真実』が、実話ベースの映画作品全体に“問いかけ”をするようなコンセプトを持っているという点で、映画史のなかである種の意義を持つ内容になったことは確かなところだ。そして本作を楽しむためには、観客一人ひとりが事件や映画づくりについて、思考を深めることが必要とされるのも、間違いのないところだろう。 参照 ※ https://www.ellegirl.jp/celeb/a84817/c-natalie-portman-doesnt-think-leon-could-be-made-today-19-0529/
小野寺系(k.onodera)