富士山と宗教(11)延暦噴火を収めた鎮火祭の起源は何なのか?
江戸時代、宝永の噴火で火山灰に埋まった須走村(現在の静岡県小山町須走地区)にある富士山東口本宮冨士浅間神社(通称、須走浅間神社)。幕府直々の復旧により神社の火山灰は除去され、その後、社殿などが再建された。神社の所蔵物はすべて、その際になくなってしまい、由緒にかかる文献も神社には存在しないそうだ。しかし、言い伝えによれば、富士山東口本宮冨士浅間神社の由緒は平安時代まで遡る。
「日本紀略」に記されている国司の報告
富士山東口本宮冨士浅間神社は由緒について次のように説明している。 「平安時代初頭、延暦21(802)年に富士山東脚が噴火、時の国司・郡司(朝廷の役人)は逃げ惑う住人のために鎮火の祈願を行うため、富士山東面・須走の地に斎場を設け、鎮火祭を斎行した。すると、同年の初申の日に噴火が収まった。この御神威を畏み、報賽するために大同2(807)年に鎮火祭の跡地・現在の社殿の地に神を祀り、同年4月初申の日を例祭日に定めたと伝えられる」(「参拝のしおり」より) 火山学が専門の静岡大学の小山真人教授によれば、平安時代、富士山は50年に1回は噴火をしていたという。中でも延暦19(800)年から延暦21(802)年にかけての噴火と、貞観6(864)年から貞観8(866)年にかけての噴火は、文献にも記録が残っており、それぞれ延暦噴火、貞観噴火と呼ばれている。 平安時代に編さんされた歴史書「日本紀略」には、駿河国や相模国の国司からもたらされた、富士山噴火についての報告が記されている。延暦噴火では、被災により、古代東海道の駿河から足柄峠を越えて相模に至る道を通行止めにし、箱根峠を越える道を別に開いたとの報告もなされている。
須走と上吉田を結ぶ国道138号
延暦噴火では富士山北麓に溶岩が流れたほか、火山灰が東麓に流れたようだ。須走の富士山東口本宮冨士浅間神社に伝わる由緒では、延暦噴火の際、朝廷の役人が須走の地に斎場を設けて鎮火祭を行ったところ噴火が収まったことから、鎮火祭の跡地に神を祀り、それが現在の富士山東口本宮冨士浅間神社の社殿であるという。 つまり、言い伝えが事実であれば、富士山東口本宮冨士浅間神社は延暦噴火の鎮火祭が行われた場所だということになる。そこで気になるのは鎮火祭とはどのようなものなのか、ということだ。今日、富士山東口本宮冨士浅間神社でも須走地区でも鎮火祭は行われていない。 富士山東口本宮冨士浅間神社の前を走る国道138号を約8キロ北に進むと山中湖に至る。山中湖の湖岸を西北に進み、そのまま国道138号を進行すると富士吉田市に至る。富士吉田市に入ると国道138号沿いに北口本宮冨士浅間神社がある。須走の富士山東口本宮冨士浅間神社から上吉田の北口本宮冨士浅間神社まで約19キロ、車で30分程度の距離だ。有料道路の東富士五湖道路を使えば20分程度で着いてしまう。