ドラマで再注目の長崎・端島 亡くなった元島民が残した絵 「最後まで掘っていたこと知って」
日本の近代化に貢献し、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」を構成する長崎市の端島(軍艦島)。炭鉱の島として栄えた当時の様子などを伝える軍艦島デジタルミュージアム(同市松が枝町)に、端島で生まれ育ち、1974年の閉山まで炭鉱で働いた元島民が描いた1枚の油絵が飾られている。 元島民は、今年11月18日に92歳で亡くなった加地英夫さん。今年は閉山から50年の節目を迎え、舞台となったドラマが放送されるなど再注目された端島だが、島とともに歩んだ生き証人がまた一人この世を去った。 油絵に描かれているのは、端島の南西約3キロに浮かぶ三ツ瀬の風景。「端島は人生そのもの」と話していた加地さんが閉山時に特別な思いで筆を握った作品だ。加地さんが油絵に込めた思いとは-。 ◆希望、別れ…閉山の物語 長崎市の端島(軍艦島)で生まれ育った加地さんは高校卒業後、端島炭鉱の工作課で働き、機器メンテナンスに従事した。1959年に結婚。周囲1・2キロほどの小さな島の人口は5千人を超え、世界一の人口密度を誇った。62年には一人娘が生まれ、島全体が希望にあふれていた。 だが、64年に起きた坑内の自然発火で消火作業のため深部区域が水没。人員整理に伴い、多くの従業員とその家族が島を去った。 加地さんら島に残った人たちが期待を寄せたのが、三ツ瀬区域の開発だった。「石炭は出るのか」。不安な日々が続いたが、65年に着炭が伝えられると「みんなで喜び合った」。機械化の導入で出炭量は増加。72年度には年間約35万トンと戦後最多を記録した。 閉山が決まり、加地さんは古里の風景を趣味の絵に残した。三ツ瀬の風景を描いた1枚は当時の思いとともに半世紀近く、大切に手元に置いていたが「閉山の物語の大事な場所。最後まで掘っていたことを知ってもらいたい」と2022年に軍艦島デジタルミュージアムに寄贈した。 ◆ドラマ「海に眠るダイヤモンド」にも生かされ 「歴史、文化を伝えることは使命」。14年の閉山40周年記念事業では実行委員長を務め、世界遺産に登録された15年には自伝「私の軍艦島記」(長崎文献社)を出版。今年1月の閉山50年記念セレモニーでは操業時の思い出を語った。 端島を舞台にしたドラマ「海に眠るダイヤモンド」で脚本を手がけた野木亜紀子さんらにも昨年、自身の体験を伝えた。加地さん自身は見ることができなかったが、ドラマでは三ツ瀬の着炭のエピソードも描かれた。訃報に接し野木さんは「加地さんの自宅で伺ったお話は、ドラマに生かされています。ありがとうございました」とコメントを本紙に寄せた。 同ミュージアムでは加地さんの証言映像も見ることができる。久遠裕子プロデューサーは「生前、『(端島の島民は)一つの船に乗っている』と話していたのが印象的だった。思いとともに大切に残していきたい」と加地さんが希望を託した絵を見詰めた。 ◆被爆者としても 加地さんは原爆の惨禍を経験した人でもあった。現在の長崎市竹の久保町にあった旧制県立瓊浦中1年だった12歳の時、下宿先に帰る途中、爆心地から1・8キロの寿町(現在の宝町)で被爆。原爆の犠牲となった同級生約110人らを悼み、慰霊祭への参列を続けた。今年の8月9日は母校の県立長崎西高で被爆体験を語る予定だったが体調がすぐれず、かなわなかった。 瓊浦中の同級生、丸田和男さん(92)は「加地君とは同じ校舎で戦時中の生活を経験し、同じような距離で原爆に遭い、互いに生き延びた。残り少ない瓊中(けいちゅう)の友人が亡くなったことに心が空っぽになるような大きなショックを受けている」としのんだ。