<高校野球物語2022春>/8 10歳試練、飛距離の礎に 九州国際大付の主砲
10歳の野球少年といえば、楽しくて仕方がない時期だろう。だが、九州国際大付(福岡)の佐倉俠史朗(1年)は小学5年の夏、突然、試合に出られなくなった。1年以上、ほとんど練習だけでバットを振った。その試練の時が、類いまれな飛距離につながっている。 2021年秋の公式戦14試合で5本塁打と、センバツ出場選手中2位のスラッガー。182センチ、104キロの堂々たる体格で左打席に入ると風格十分だ。パワーに加え、柔らかさもある。 北九州市民球場であった福岡大会5回戦では、場外ホームラン。明治神宮大会準決勝では、大阪桐蔭の注目左腕・前田悠伍(1年)の直球を「追い込まれていたのでフルスイングではなく、うまく芯で捉えられました」と軽々と右翼席に運んだ。 小学1年の時、福岡県久留米市の「宮ノ陣フラワーズ」で野球を始めた。チームにはセンスを感じさせる選手を右打ちから左打ちに変える方針があり、佐倉も右から左に。田口省司監督(46)は「1年生だとせいぜいダイヤモンドの中までだが、外野まで飛ばしていました」と話す。4年生以下のチームもあったが、順調に成長した4年生の佐倉は、6年生中心のトップチームで4番デビューした。 ところが10歳だった小学5年の夏、思いもよらないことが起きた。指導方針を巡って保護者間で意見が分かれ、6年生と4年生がやめた。残ったのは唯一の5年生だった佐倉と、3年生以下の4人の計5人。佐倉は父の友人でもあり、熱心だった田口監督の指導を受け続けるために残ったが、チームは試合ができなくなった。週に5日、小学校の広いグラウンドで5人で練習する日々が始まった。 この試練の時が打撃の礎を築いた。佐倉以外は3年生以下だったため、田口監督は「他の選手はこの先もあるが、佐倉の時間は残り少ない」と練習時間の8割を佐倉の指導に当てた。トス打撃、ロングティー、フリー打撃。佐倉は延々とバットを振り続けた。 「当たったら飛ぶが、率が悪い。引きつけて反対方向に打つということを意識させ、外角を狙いながら、内角を打つ練習も徹底しました。良い投手は追い込んでからも内角を突いてくる」と田口監督。体が開かないスイングと内角打ちを教え込まれた。 佐倉は「とにかくホームランを打ちたくて体が開いていた。基本的なこと、将来につながることを教えてもらいました。たくさんの人から指導を受けましたが、もとになっているのは田口監督の教え」と語る。その後、選手が集まり、佐倉が6年の秋ごろには単独チームで試合ができるようになった。試練を二人三脚で耐えた日々が、力強さも巧みさも併せ持つ今のスイングにつながった。 ◇スイングさらに強く 中学生になった佐倉は、地元の硬式野球チーム「球道ベースボールクラブ」に進む。ここで1986年に西日本短大付(福岡)で甲子園に出場し、ダイエー(現ソフトバンク)ではプロ野球も経験した後藤将和監督(53)と出会った。 後藤監督の育成方針は「小中学校で活躍しても何もならん。高校野球で花を咲かせないと上につながらない」。技術に頼る打撃で中学野球の成績を残すより、さらに強いスイングを身につけるよう指導された。振り続けた練習用バットは高校野球の規定(900グラム以上)でも重い1400グラム。そのバットで軽々と外野の頭を越していた打撃練習中、別の選手を見に来ていた九州国際大付の楠城徹監督(71)の目に留まった。 高校では好投手との対戦では粗さものぞかせ、「力んで大振りするな」と楠城監督から厳しい言葉を受ける。それでも21年秋の福岡大会中から4番に座る。甲子園で本塁打を何本打ちたいとは軽々しく口にせず、「勝利が一番なので、チームに貢献できる勝負強い打撃がしたい」。試合すらできなかった小学生の日々が、勝利を求める原動力となっている。【吉見裕都】=つづく