かつての中央道は命がけのデンジャラスゾーン! 追い越しOKの対面通行で「正面衝突多発」の修羅の道だった
中央道はめちゃめちゃ危ない道路だった
東京都杉並区の高井戸ICから長野県の諏訪市を経由して、愛知県小牧市の小牧JCTまで通じる、中央道こと「中央自動車道」。まぁその本線に加えて、山梨県大月市で分岐して富士吉田ICまで続く富士吉田線もあるわけだが、それはそれとして、日頃から中央自動車道をフツーに安全に利用しているという人は多いだろう。 【画像】高速道路の工事用車両が左にハンドルを切って停車している様子などの画像を見る だが、いまでは安全で平和な中央道も、その昔は「暫定2車線区間が長く、なおかつそこは追い越し禁止でもなかったため、正面衝突が多発する超危険なハイウェイ」であったらしい。 マジか? と思って調べてみたら、たしかにそのとおりであった。そして中央道が「対面通行で追い越しも可能だった時代」に、筆者は父の運転により、その区間を通行していた可能性が高い。あのとき死ななくてよかった……と神様に感謝しつつ、デンジャラスだった時代の中央自動車道について少々記してみたい。 「敗戦後の日本を復興するため、東京―神戸間を結ぶ高速道路を建設する」という構想に基づいて起案された(現在でいう)中央自動車道は、当初案では、東京から南アルプスをトンネルでぶち抜き、最短距離にて名古屋へ向かうことになっていた。 だが、東京―名古屋間は「静岡県側の海岸ルート(現在の東名)を採るべし!」という意見も強く、南アルプス貫通ルートは技術的にも無理があったため断念。結果として現在の「諏訪回り(北回り)」に変更され、段階的に部分開通を重ねていった。
やっぱり大事故が多発!
まずは1967年12月に調布IC―八王子IC間が開通し、「中央高速道路(調布八王子区間)」として営業が開始され、翌1968年には八王子IC―相模湖IC間が開通。そして1969年には相模湖IC―河口湖IC間が開通したわけだが、この八王子IC以西の区間が「暫定2車線の対面通行で、なおかつ追い越しも可」というデンジャラスゾーンだったのだ。 中央分離帯がなく、なおかつ追い越し禁止でもないとなれば、当然ながら多くのドライバーは対向車線にはみ出したうえでの追い越しを行ったのだろう。で、その結果として当然ながら、正面衝突事故が多発したらしい。八王子IC―大月IC間の4車線化が完了したのは1973年で、暫定2車線だった大月IC―河口湖IC間ではみ出し禁止措置が採られたのは1976年12月のことだった。 つまり、1968年頃から1973年頃にかけては八王子IC以西の全線でデンジャラスな追い越しが行われていて、大月IC―河口湖IC間ではその後1976年まで、命がけの追い越しが敢行されていたということだ。 たとえば1976年というと、我が家の父は5代目のトヨタ・コロナ(T100系)に乗っていた。そして小学1年生ぐらいだった筆者はそれの後席または助手席に座り、中央道を使って相模湖やら河口湖まで遊びに行っていた。その際に父が対向車線にはみ出しての追い越しを敢行していたかどうかについての記憶はない。また、父に確認しようにももはやあの世の住人であるため確認のしようがない。だが父の性格を考えると「たぶん,やってただろうな」とは思う。 現在のトヨタ製ファミリーカーは、なかなかの諸性能を有する優秀な乗り物であるため、仮に中央分離帯のない暫定2車線の高速道路で追い越しをかけたとしても、まぁ死にはしないのではないかと思う。ちゃんと加速し、ちゃんと減速できるからだ。そしてグワッと急ハンドルを切っても、基本的には(あくまで基本的には)いきなり横転もしないだろう。 だが1976年のT100系コロナは……運転したことがないため正確なところは不明だが、まぁ正直ヤバかったのではないかと思う。もちろん「安全を十分に確認したうえで、普通に対向車線に出る→スムースに追い越し→再びスムースにもとの車線に戻る」という運転法であったなら、1976年頃のT100系コロナでも何ら問題は発生しなかっただろう。 だが、追い越しをかけている最中に何らかの予期せぬことが起こり、「急」が付く動きをしていたなら──筆者と父母および兄は、まとめて天に召されていた可能性もある。 ちなみにその時代の我が家は、シートベルトなんてものはまったくもって締めていなかった。 なお「中央高速道路」という通称名でスタートした中央道だったが、あまりにも正面衝突事故が多発したせいで、その後は“高速道路”の4文字が外れ、現在の「中央自動車道」という通称名に改称されたのだった。
伊達軍曹