映画「ある一生」に見る不条理な社会での“生き方”主人公の生きざまは老子の「理想像」
それでも、私たちはさまざまな利害、雑音、我欲にさいなまれ、エッガーのように生きることはなかなかできない。 「私たちはエッガーになれる可能性を秘めていながら、そうはなれない。ロマンチックな考えを言えば、この映画を見ることで、一人でも多くの人が彼のような生き方に少しでも近づいてくれれば、というのが私の希望なんです」
「なにか」が失われた現代
映画には月面着陸のテレビ中継が象徴的に使われている。1969年7月20日のことだ。 「人類の進歩」を象徴する出来事ではあったが、皮肉にも人類はそのときを境に頭打ち、あるいは退歩しながら、現在に至っているのではないか。すっかりエッガーの気持ちになっていると、自然とそんな疑問が湧いてくる。 「老いたエッガーは月面着陸を見て、初めてバスに乗り、アルプスの麓の終点まで行きます。そこは巨大なコンクリートでできた人工物の果ての果てです。まさにリミット(限界)の象徴です。人類の進歩の限界、そして、自然と人間の関係の限界。それを意味しているととってもらっても構いません」 もちろん、あらゆる差別など、69年以降、改善されつつある問題は幾多もある。だが、人間と自然との関係、資本、経済規模のあくなき拡大による環境改変、格差の拡大、個々の幸福度の低下など、69年あたりを境に人類全体はさほどまともな方向に行っているとは思えない。 そんな考えがこの作品の作り手の底にあるのではないか。原作者も監督も偶然にも1966年生まれ。二人が思春期にさしかかったのが1980年である。 「確かに、世代的なものはあります。私たちが14歳のころ、1980年はレーガノミクスの前夜で、経済がおかしくなり始めたころです。78、9年ごろまでは一種の無垢の時代と言えるかもしれませんが、直後にネオリベラリズムとネオコンサーバティズムが前面に出てきた。私たちの世代は、あのころを境に、なにかが失われたんだと身をもって感じているのかもしれません」 「なにか」とは何か。原作にそのヒントらしきものがある。老いたエッガーがアルプスを訪れる観光客を案内するくだりだ。 <どうやら観光客たちは、自分たちがもうずっと前に失ってしまったと考えているなにかを取り戻すために、山へとやってくるようだった。そのなにかというのが正確にはなんなのか、エッガーにはさっぱりわからなかったが、時がたつにつれて、彼らは結局のところ、自分の後をついてよろよろ歩いているのではなく、なんらかの見知らぬ、飽くことなき憧れの後を追いかけているのだという確信を深めていった> ここで言う「飽くことなき憧れ」とは何だろうか。エッガーの生涯かけてたどりついた悟り、あるいは老子の言う「胸の中を青空のように空っぽにする」境地を、それは指しているのだろうか。
藤原章生