フランスが開発した傑作野砲を日本に移植した【90式野砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 日本陸軍は、第一次大戦前から主力となる野砲の口径を75mmとしていた。しかし同大戦が終わった頃になると、戦時下に火砲技術が著しく向上し、同陸軍がそれまで使用していた1907年に制式化された38式野砲の旧式化が問題となった。 しかし砲という兵器は、砲身そのものばかりでなく周辺装置を改良することである程度の性能向上が可能なため、38式野砲に近代化改修を施した改造38式野砲を開発する一方で、次世代を担う完全な新型野砲の開発が急務となった。 だが当時の日本の火砲技術では、最新の野砲をゼロベースから開発して行くのは時間的にも技術的にも手間のかかることだった。そこで外国からの技術導入が選択され、ヨーロッパ屈指の陸軍大国で、兵器先進国でもあったフランスにその範を求めることとなった。 目星が付けられたのは、フランス屈指の兵器メーカーであり、過去にも優秀な火砲を開発してきたシュナイダー社だった。同社が開発した75mm野砲が、日本陸軍のニーズに適していると考えられたのだ。 このシュナイダー75mm野砲は、第一次大戦でも使用され、同名のカクテルで世界的に有名になった“フレンチ75”ことフランス国営造兵廠製の75mm野砲M1897とは、砲弾と薬莢(やっきょう)に互換性があった。 最初、日本陸軍はこのシュナイダー75mm野砲を基にして独自のニーズに適応した新しい75mm野砲を自主開発する考えを抱いていた。ところが実物の同砲を精査してみると、当時世界最先端ともいえる砲だけのことはあり、日本向けに一部手を加えれば、そのまま採用できるという結論が下された。かくして、同砲は1932年に90式野砲として制式化の運びとなったのである。 しかし1930年代末になると、列強の野砲はより大口径、大威力、長射程を求めて、その後継が100mm級となっていた。そして、それよりも二回り小さい75mm級の砲は、戦車など車載砲化される傾向にあった。 だが残念ながら日本陸軍では、75mm級の砲を搭載可能な規模の車体を備えた戦車の登場が大戦後期だったため、この規模の砲が戦車砲として活躍する機会はなかった。とはいえ、列強の基準では対戦車自走砲に分類される1式砲戦車などに90式野砲の改修型が搭載されたが、進化の速度が著しい戦時下において、すでに75mm級の砲は威力不足になりつつあった。 その名称のごとく、90式野砲は本来は「野砲」である。だが太平洋戦争が始まると、アメリカ製のM3スチュワート軽戦車、M3リー/グラント中戦車やM4シャーマン中戦車といった、当時の日本陸軍が装備した37~47mm級の対戦車砲では撃破に手を焼く戦車が大量に姿を現した。 そこでこれらの「強敵」に対処すべく、90式野砲が対戦車砲の代用として対戦車戦闘に投入されることも少なくなかった。同砲は相応の威力を備えていたので活躍したものの、残念ながら牽引式火砲なので戦車に比べて機動性に欠け、善戦しても最終的には撃破されてしまうことがほとんどであった。そしてその結果、火砲の装備数が少ない日本陸軍にとっては貴重な主力野砲が失われるという戦力低下を覚悟しなければならなかった。 第二次世界大戦初期の時点で、列強では100mm級の野砲が主力となっており、威力と射程の面で劣る75mm級の野砲は、野砲としては二線級とされていた。しかし火砲の量産が苦手な日本では、90式野砲が最後まで野砲の主力的役割を担っていた。
白石 光