「やってはいけないことをやってしまった」…。ラーメン王国・山形県で一番人気「新旬屋」、店主が今も悔やむ“痛恨の失敗”
「戸沢流冷麺」の開発から製麺に興味を持った半田さんは、大和製作所という製麺機メーカーに出会う。仙台営業所を訪ねて製麺をさせてもらっているうちに、社長の藤井薫さんに出会うことになる。 藤井社長は香川で讃岐うどんの製麺機を開発し、その後「博多一風堂」の店主・河原成美さんとともにラーメンの製麺機を開発した。開業希望者に向けたコンサルティング事業や、本社で開講する「麺学校」に外国人が殺到するなど、今では世界的に有名な大和製作所だが、藤井社長は当時から世界を見ていて、半田さんはその視座の高さに惚れ込んでしまった。
「小さい頃、将来はプロ野球選手かラーメン屋になると言っていました。野球は肘を壊してダメだったんですが、ラーメン屋にはなれるかもしれないと思ったんです。小学校時代から近所のラーメン屋から出前を取って食べるぐらい好きでした。 サラリーマンの生涯年収を考えたときにもう少し稼ぎたいなと思いましたし、藤井社長のもとで学べばいいラーメン屋になれるかもしれないと思ったんですよね。こうして会社を辞めて香川に行きました」(半田さん)
会社を8年9カ月で退職し、29歳で大和製作所に行き、藤井社長のラーメン学校に1週間限定で通うことになる。藤井社長からいろんなラーメンの技法を直接学び、1つずつ仕事を覚えていった。ある日、夜の9時頃にスープが出来上がり、味見をして納得をしていない半田さんの表情を見ると、藤井社長は寸胴をひっくり返し、朝の3時まで寝ずにスープ作りに付き合ってくれた。 今ではなかなか予約の取れないラーメン学校だが、当時は生徒が5人しかおらず、藤井社長のマンツーマン指導を受けられたことは大きな宝になっている。
山形に戻って、いよいよ自分のお店を開きたいと思い、新庄市の路地裏の住宅街の物件を借り、早速製麺機を購入してラーメンの試作を始めた。新庄のご当地ラーメンである「とりもつラーメン」と豚骨ラーメンを2種類作り、「鶏ラーメン」「豚ラーメン」として完成した。こうして2006年「新旬屋 麺」はオープンした。 「『新』しい『旬』の食べ物を作りたいということで『新旬屋』と名付けました。とりあえずラーメンを始めるけど、いずれラーメンじゃなくなるかもしれないことも考えて『新旬屋』の後ろに『麺』とくっ付けたんですよね。いずれ『新旬屋 飯』とか『新旬屋 肴』とかになってもいいように付けたんです。今思えば優柔不断な性格がモロに出た店名だったと思います」(半田さん)