「ツンデレな道綱母」が藤原兼家にした嫌がらせ バカにされても大納言にまで出世した藤原道綱
藤原道綱の母は、この力作を色のあせている菊に挿して、兼家に送っている。この秀逸で切ない和歌を受けて、兼家はこんな返事をした。 「夜が明けるまでも待ってみようとしたけれども、急な呼び出しが来てしまって」 (明くるまでも試みむとしつれど、とみなる召し使ひの来合ひたりつればなむ) ■不信感を募らせる道綱の母 なんとも軽い返事である。その後「いとことわりなりつるは」、つまり、「あなたが怒るのも当然だよね」と、とってつけたように言いながら、さらに、こう続けている。
「げにやげに 冬の夜ならぬ槙(まき)の戸も 遅くあくるは わびしかりけり」 意味としては「本当に、冬の長い夜が明けるのを待つのはつらいものだが、冬の夜でもない真木の戸が開かないのもつらいことです」。 君もつらかっただろうけど、せっかく行ったのに戸が開かないのもつらかったよ……と、結局のところ、謝る気はなし。 不信感を募らせる藤原道綱の母だったが、兼家は素知らぬ顔をするばかりだった。しばらくは「宮中に行く」と言い続けて隠すべきなのに、それすらもしなくなったことについて、藤原道綱の母はこう嘆いている。
「いとどしう心づきなく思ふことぞ、限りなきや」 (不愉快に思うこと限りない) なんともかみ合わない2人。飄々とした兼家の前に、道綱の母による「兼家追い出し作戦」は、不発に終わることとなった。 正妻と妾で待遇が異なったのは、本人だけのことではない。正妻との間に生まれた子と、妾との間に生まれた子では、待遇に大きな違いあった。 寛和2(986)年、兼家の策略による「寛和の変」によって、花山天皇は出家して、退位することになる。この一大プロジェクトにおいて、藤原道綱は、兄の道隆とともに清涼殿にある三種の神器を皇太子の居所である凝花舎に移すという役割を果たしている。
無事にミッションを果たした道綱だったが、兄の道隆だけではなく、弟の道兼や道長に比べても昇進は遅れている。 ■バカにされても出世した道綱 3人とも正妻である時姫が産んだ子だったから……ということもあるが、それだけではない。実際には、国母となった詮子と兄弟だったことも昇進の差となったようだが、道綱の母としては、やるせない気持ちだったことだろう。 もっとも、道綱の場合は、単純に能力が劣っていたともいわれている。藤原実資からは「一文不通」、つまり「文字が書けない」と揶揄されて、「あいつは自分の名前を書くのがやっと」と『小右記』に書き残されている。あまり仕事ができるタイプではなかったようだ。