ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (47) 外山脩
この時、星名はサンパウロで知り合ったライト電力会社のアメリカ人重役から数十コントを借りて、切り抜けた。米国での経験とサンパウロで広めていた交友関係が役立ったという。 しかし、やがて小笠原は星名の粗放冗漫さに嫌気がさすようになり、袂を分かった。 一九二五年──詳細は後ほど記すが──星名の植民地のある奥ソロカバナ線地方のカフェー生産者が危機に陥った。 星名は代表者として、同じ危機に見舞われていたノロエステ線地方の代表上塚周平と共に、日本政府の援助を得るべく奔走した。 これは実現したが、一九二六年末、アルヴァレス・マッシャードの駅で、一ブラジル人に銃撃され死亡した。恨みを受けていたという説もあり、狙撃者が人違いしたという説もある。 星名には愛人が居た。この女がなかなかのやり手で、色々と商売をし、売春宿まで営み、星名を助けていた。が、星名の難以前に、何かのことで銃撃を受けて重傷を負い、結局死亡している。 ブレジョン植民地は、その後、入植者五百家族を数える大集団地となり、この地方の邦人発展の拠点となった。 西原清東 右の星名の話の中に西原清東の名があるが、その当人が一九一七年、ブラジルに渡っている。 西原は一八六一年、文久元年、土佐の生まれというから、水野龍と同じ生国で、同じ世代である。 二十代半ばで代言人(弁護士)試験に合格、大阪で開業した。一方で板垣退助の自由民権運動に参加した。 一八九八(明31)年、衆議院議員選挙に当選。翌年、危機に在った京都の同志社を、その社長になって救った。 相当な器量の持ち主だったのであろう。 しかし僅か数年で、議員、社長の職を捨てて渡米した。四十歳を越していた。事情については判然としないが、この捨てっぷりにも感嘆させられる。 米国ではテキサスの広大な土地で米作りを始めた。これに成功、その壮挙は、米国は勿論、日本でもブラジルでも広く知られた。ところが、やがて後を息子に任せ渡伯した──という次第だが、これは米国に於ける排日気運の盛り上がりに嫌気がさしたためという。 五十七歳であり、当時としては既に老齢であった。 ブラジルでは、日本人の大植民地を建設しようとしていた。が、取り敢えず、パライーバ河沿岸で米作りを試みた。 その米は立派に育ったが、灌漑施設を疎かにしていたため、浸水で全滅させてしまった。 別の土地に移り野菜作りをしたが、うまく行かず、生活も窮迫した。 一旦、日本に帰り台湾に渡って再起を図ったが失敗、フィリピンに次の夢をかけ、金策のため米国の息子を訪れた。 そこで発病、再び立ち上がることはなかった。一九三九年、鬼籍に入った。八十歳近かった。 奇行の生涯 ところで、日本に帰った上塚周平は、どうしていたろうか。 滞日四年、この間、竹村殖民商館は解散した。 以後、帰国時に口にしたブラジルでの植民地建設もしくは農産加工業を目指した。ために協力者を探し、当時、内閣閣僚を歴任していた政界随一の切れ者後藤新平にも面会した。が、二度目の面会は叶わなかった。「閣下」と呼ぶべきところを「後藤君」とやり、ご機嫌を損じたという。 結局、協力者は得られず、東京下谷竹町……といえば、貧民の集中する下町であったが、その裏長屋に住み、昼は子供相手の風船玉売り、夜は近所の人々の手紙の代筆で食いつなぐ境遇に落ちた。サンパウロ時代とそっくりである。 結局、手ぶらで一九一七年、ブラジルへ舞い戻った。その船賃は、菊池恵次郎という帝大時代の友人が算段してくれた。 そういう具合であったのに、ブラジルに着き次第、植民地を建設するつもりでおり、日本出発に先立って、友人たちに協力を求める手紙を送っていた。その送り先の中に、南樹や香山六郎も含まれていた。