「バンコーツ!」…「旧日本海軍の軍人たち」が唱和した「乾杯の言葉」の「意外な意味」
私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
指揮官が大量戦死
「飛行学生の訓練を終えて、第十三航空隊に着任した昭和13(1938)年2月のことです。南京市内の支那料理屋で私の歓迎会を開いてくれることになったんですが、乾杯のとき、みんなが『バンコーツ! 』と声を張り上げて唱和する。そんな乾杯の発声、聞いたこともなかったから面食らいましたね」 と語ったのは、海軍戦闘機隊の指揮官だった志賀淑雄・元海軍少佐(1914‐2005)である。「志賀」は昭和15年、結婚してからの姓で、それまでは「四元」だった。 海軍兵学校生徒の頃から空に憧れていた四元(志賀)は、軽巡「神通」乗組を経て昭和11(1936)年12月、第二十八期飛行学生を命ぜられ、茨城県の霞ケ浦海軍航空隊で飛行訓練に入った。 昭和12(1937)年7月に支那事変が勃発。海軍は航空兵力をもって陸上戦闘を支援し、にわかに飛行機の重要性がクローズアップされるようになっていた。志賀は戦闘機搭乗員に選ばれ、昭和12(1937)年9月から大分県の佐伯海軍航空隊で戦闘機の訓練をはじめる。 「そして昭和13年1月30日、南京に進出していた第十三航空隊への転勤命令がきて、九六戦(九六式艦上戦闘機)に乗り、済州島経由で南京へ向かいました。 その頃、中国大陸では海軍航空隊の指揮官クラスが大勢戦死していて、中攻(九六式陸上攻撃機)隊の損害も多かった。陸軍がこんなバカな戦争を始めるから、中攻がいっぱい犠牲になるんだ、という憤りはありましたね。俺は出番があってありがたいけどな、とも思いましたが‥‥‥」