新人が“登板拒否”…エースに「お前が投げたら?」 謝罪もそっぽ、飛躍につながった事件
松沼博久氏は東洋大から東京ガス入社…1年目の都市対抗で“登板拒否”寸前
負けん気の強さで飛躍した。「西武ライオンズ」スタートの1979年に弟の雅之氏と一緒にプロ入りし、「兄やん」の愛称で親しまれた野球評論家の松沼博久氏は、アンダースローの先発として新人王に輝くなど西武一筋で112勝をマークした。東洋大で飛躍を遂げた後は、社会人野球の東京ガスに進んだ。「僕の性格って多分おかしいんですよ(笑)」。“上司”相手でも遠慮なく自己主張した。 【映像】グラブ投げつけ、踏むわ踏むわ…ブチ切れて扇風機をボコボコ 松沼氏は1975年に東京ガスに入社。大学時代のオープン戦で交流があり、自然な流れだったという。勤務は伝票整理などを午前中に行い、午後から練習。職場からグラウンド、寮ともに近く環境は申し分なかった。「給料は、あの頃で月に8万5000円。まあまあ良かったと思います。入社2か月までは、こんなにお金があっていいのかな、と感じてました。でも3か月目からは先輩たちに『飲みに行こう』とか色々誘われ始めた。僕も嫌いじゃなかったんで(笑)。あっという間にツケになっちゃいました」。 “本職”の野球も充実の滑り出し。1年目からチームは都市対抗に出場した。エースには豊橋東高(愛知)時代に中日からドラフト指名された経験を持ち、慶大で活躍した工藤真投手が君臨していた。熊谷組から補強の久保田美郎投手、そして松沼氏が控える陣容だった。準々決勝の大丸戦に4-6で敗退も、ルーキーは3番手で大会初登板。9回の1イニングをノーヒット、1奪三振と最高のデビューを果たした。 ところが、松沼氏の印象は全然違う。「僕は『否、投げなくていいです』と断ったんです。リードされている展開で『何で俺が』と。キャプテンが無理やり背中を押して『いいから行け』と言うので嫌々投げました。だからと言って、自分が凄いピッチャーだと思っている訳ではないんですよ。職場の方々から都市対抗に出るからと盛大に祝って頂いていた。いくら華やかな都市対抗でも負けている状況では……。無失点でも、あんな嫌な思い出は忘れないですよ」。 松沼氏は2年目以降も結果を残した。「でも、そこそこなんですよ。そこそこ。エースがいる。他の投手もいて、その中の1人。エース扱いはされない」。進化を目指す過程でバッテリーの呼吸を重視していた。「キャッチャーは大事じゃないですか。僕は優しく構えてくれる人が好きで、きっちり『ここだ!』とコースを要求する真面目過ぎるタイプは苦手でしたね」。