1994年から3年間磐田でプレー…59歳で逝去スキラッチ氏の日本移籍を伊紙が特集「半神のように歓迎。日本サッカーに貢献」
59歳の若さでこの世を去った元ジュビロ磐田のサルヴァトーレ・スキラッチ氏について、イタリア紙『クオティディアーノ・スポルティーヴォ』が特集を組み、日本移籍を振り返った。 故郷シチリアのメッシーナで頭角を現すとユヴェントスへと移籍し、母国開催の1990年イタリア・ワールドカップ(W杯)では6ゴールをマークして得点王と最優秀選手に輝いたスキラッチ氏。その後、インテルでのプレーを経て、1994年にジュビロ磐田へ加入すると、現役引退する1997年までJリーグでプレーした。 イタリア紙は、そんなスキラッチ氏の日本移籍を回想。「スキラッチが日本へ渡って“アメリカ”を発見した時…こうしてトト(サルヴァトーレの愛称)は2つの世界のヒーローになった」との見出しをつけ、「半神のように歓迎され、日本サッカーの発展に貢献した」などと紹介している。
■日本で“新世界”に出会ったスキラッチ氏
スキラッチ氏は「1994年4月14日、インテルを離れて日出ずる国の地へ渡った」が、「予想外の交渉であり、予測不能な冒険だった」と同紙は振り返る。当時のスキラッチ氏は「インテルで構想外」、「セリエAではもはや過去の選手」となっていたが、「世界ではまだ、1990年イタリアW杯の得点王であり、ユヴェントスのストライカーの“スキラッチ”」であり、「シーズン中に、日本のリーグでプレーするイタリア人初の選手となるための契約にサイン」した。 「まだ30歳にもならないトトは、いったい何を期待していたのだろうか」と特集記事は疑問を掲げつつ、「おそらく孤独か、きっと新世界を求めていたのだろう」と主張。「彼は日本へ飛ぶと、“アメリカ”を発見した」として、ヨーロッパとは異なる遠く離れた別世界において「日本到着時だけでなく、ジュビロ磐田のシャツを身にまとってプレーしたあらゆるスタジアムにおいて、半神のように歓迎された」ことを伝えた。 またスキラッチ氏のJリーグ移籍は、「日出ずる国で初となる本物のプロサッカーリーグにおいて、イメージの面で真の飛躍となるものだった」とも指摘。そんな中、「引退する1997年まで、出稼ぎをしながら、いたれりつくせりの待遇を受ける一方で、フィジカルトラブルに苦しみながらも、ピッチにおいても、手を抜くことはなかった」と振り返った。
■日本サッカーにおけるパイオニア
その上でスキラッチ氏が日本サッカーにおける「パイオニア」的な存在であったと指摘。「日本が2002年W杯招致に成功し、日本サッカーがしばらく前から世界レベルにおいても存在感を示すようになったのは、あの移籍のおかげ、『キャプテン翼』を超えるようなあの3年間のおかげでもあるだろう」と主張した。そして最後に、「子どもたちはブラジルやヨーロッパを夢見ていたが、トトは逆の道を歩み、彼の“アメリカ”を見つけた」と綴り、スキラッチ氏が、欧州や南米を夢見る子どもたちのいた日本へやって来て、新世界に出会ったことを改めて強調した。