元シェイプアップガールズ・梶原真弓「東洋紡キャンペーンガール、ギャラも10代の私には巨額でした」
87年東洋紡、92年アサヒビールなど、多くの企業でキャンペーンガールやイメージガールを務めた梶原真弓(57)。「シェイプUPガールズ」のメンバーとして94年にデビューした後も、健康的なお色気を振りまいた彼女の原点に迫った。 【関連写真】JR東海クリスマスCMで一世を風靡した懐かしのCM美女 「一番印象に残っているのは、やっぱり最初に務めた東洋紡さんのキャンペーンガールです。その時はまだ19歳で、モデル事務所に所属していたんですけど、マネージャーさんに言われて、キャンペーンガールというものがどんなことをするのか、よくわからないまま受けることになりました。 最終審査に残ったのは5、6人だったと思います。東洋紡さんの本社がある大阪まで行って、1人ずつ色々な質問を受けたり、水着になったり。すでにモデルのお仕事はしていましたから、人前で水着になるのは初めてではありませんでしたが、プールなどで撮影する時は周りの方も水着姿が多いじゃないですか。ですから、スーツの方々の前で水着になるのはちょっと恥ずかしかったですね(笑)」 ーーその最終審査では、こんなやり取りを覚えている。 「当日の朝に母から聞いたんですが、実は母も若い時に東洋紡さんのCMに出たことがあったんです。最終審査の時にその話をしたら、東洋紡さんの中に1人だけそれを覚えていた方がいらしたんですね。そのCMの撮影をした時、その方は一番の若手だったんですけど、私の時はその場で一番偉い役職の方で『覚えてる』と言ってくださって。もしかしたら、そんなご縁もあって選んでいただいたのかもしれません」 ーーバブル景気の影響で日本中が沸き立っていた時代。待遇もよかった。 「キャンペーンガールに決まってからは『色々なタイプの水着に対応できるように日焼けをしてほしい』ということで、たかの友梨ビューティクリニックに通って、まずは下地作りをしました。それからポスター撮影のためにグアムへ行って、帰ってくるとすぐにオーストラリアのゴールドコーストへCM撮影に。 その1週間後には同じ年に務めていたコーセー化粧品さんの撮影で、またオーストラリアのシドニーに連れていっていただきました。当時は日本から移住される方が多かったり、オーストラリアが流行っていたんですね。本当に楽しかったですし、そんな時に2回も行けるなんて、とてもラッキーだったと思います」 ーー東洋紡を皮切りに92年にアサヒビールのイメージガールを務めた6年間、毎年どこかのキャンペーンガールの依頼を受けた。その中で得たものは? 「キャンペーンガールやイメージガールに選ばれると、次のオーディションに行った時、やっぱり一目置かれるんですよね。『あっ、○○の梶原真弓だ』って(笑)。東洋紡さんの時は10代だったこともあって、そこまで思いが至らなかったんですが、『その企業の”1年間の顔”になるって本当にすごいことだったんだな』と、その後、改めて気づかされました。えっ、当時のギャラですか(笑)。基本的に年間契約なんですけど、10代の女の子にとっては、すごく大きな金額でしたよ」 ーーそんなモデル時代を経て、94 年に美と健康をテーマに結成された4人組グループ「シェイプUPガールズ」としてデビューを飾り、各方面で活躍。04年に結婚後、双子の男の子が誕生した。 「本当は子供を産んだらすぐにお仕事に復帰しようと思っていたんですが、男の子だから手はかかるし、まさか子育てがこんなに大変だとは(笑)。それに意外なことに私にも母性本能がありまして、子供たちに寄り添っていたらアッという間に17年が過ぎていました。今は2人とも高校生。おかげさまで素直でいい子に育っています」 ーーシェイプUPガールズのデビューから今年で丸30年。それを記念して新たな活動も始まった。 「昨年だったかな。せっかくの機会だから、また集まって何かやりましょうという話になって、中島史恵ちゃん(56)と『シェイプUP30(サーティ)』として活動を始めました。公募していた新メンバーも8月に決まって、全員で30人の大所帯です」 ーーこれからは世の中を元気にするべく、活動に励んでいくという。 「その時は中島史恵ちゃんと2人だけだったんですけれど、この前は長野県のイベントに参加させていただきました。大勢のお客さんの前に立つのは久しぶりでしたが、やっぱりお客さんと踊ったり、話したり、本当に楽しかったです! これからも色々なところへ出かけていきますし、遅ればせながらインスタグラムを立ち上げて、月イチでインスタライブもやっていますので、見ていただけたらうれしいです」
ENTAME next編集部