坂本龍一が当時あきれたシティ・ポップブーム「売れた奴らが牛丼じゃなく六本木のステーキ屋の話をしている…」 瀕死状態のロフトを救ったパンクイベント『DRIVE TO 80’s』とは
「それは自分たちで防衛隊を組織します。安心してください」
その時代、日本にも芽生えたパンクス群は非常にアンダーグラウンドで小さなライブ空間(渋谷屋根裏、吉祥寺マイナー)で細々とライブを行なっていた。日本のパンクスは海外のモノマネでしかない、そのうえ機材は壊すしケンカは起きるという危険な噂が広まっていたのを私たちは知っていた。どこのライブハウスもパンクのライブをやるのをどこか恐れていて、その種のバンドがライブを行なう場所すら当時はなかったのだ。もちろん私たちロフトもパンクに対しては同じ認識だった。 「そうか、全国から40バンドも結集してお祭りをやるというんだね。それで一番問題なのは、誰が会場防衛をするかだ。われわれにはパンクスの暴挙を抑える力がない。動員もちゃんとしてほしい」と、いささか高飛車に出た。 「それは自分たちで防衛隊を組織します。安心してください」と地引は答える。 そんな雑談の末に、私はゴー・サインを出した。ただでさえ埋まらないスケジュールだったが、夏の盛りである8月は特に埋まらなかったので、自由にやってもらうことにしたわけだ。 こうして『DRIVE TO 80’s』と題された日本のパンク/ニュー・ウェイブの祭典と言うべき一大イベントが1979年8月28日から9月2日まで行なわれることになった。各日のスケジュールを振り返ってみよう。 8月28日(火)前夜祭 映画『ROCKERS』上映/ボーイズ・ボーイズ/バナナリアンズ 8月29日(水)フリクション/アーント・サリー(from大阪)/不正療法/HI-ANXIETY 8月30日(木)プラスチックス/SS(from京都)/自殺/フレッシュ 8月31日(金)S-KEN/ヒカシュー/ミスター・カイト/スタークラブ(from名古屋) 9月1日(土)ミラーズ/P-MODEL/8 1/2/サイズ 9月2日(日)リザード/突然段ボール/マリア023/モルグ いずれも¥1000/¥1400(通し券¥5000)※例外あり パンク・ロックの発火点となった東京ロッカーズと呼ばれた一群のバンドから、メディアの話題を集めたテクノ・ポップの旗手たちまで、当時のシーンを代表するほとんど全てのバンドが集結した。全24組の新進気鋭バンドが6日間にわたり壮絶なパフォーマンスを披露し、蓋を開けてみれば連日大入りの大盛況。イベントは次々とロフトの動員記録を更新し、大成功のうちに終わった。売り上げ的にも充分だった。 このイベントをきっかけに日本のパンクスたちはそれなりに音楽業界から認められるようになり、その後、日本のパンク/ニュー・ウェイブは凄まじい勢いで浸透、拡大していった。 こうして『DRIVE TO 80’s』の成功で自信を得た私は、ロフトのブッキングをパンク路線へと大幅に変更していき、結果的にその後のライブハウス「ロフト」の方向性をも形作ったのだった。当時はまだニューミュージック主体だった新宿ロフトはその後、次第にロックの中心地となり、ライブハウスを中心としたロック・シーンが大きく育っていったのだ。 文/平野悠 ---------- 平野悠(ひらの ゆう) 1944年生まれ。ライブハウス「ロフト」創業者、またの名を「ロフト席亭」。70年代に烏山、西荻窪、荻窪、下北沢、新宿にライブハウス「ロフト」を次々とオープン。その後、海外でのバックパッカー生活、ドミニカ共和国での日本レストランと貿易会社設立を経て90年代初頭に帰国。1995年、世界初のトークライブハウス「ロフトプラスワン」をオープンし、トークライブの文化を日本に定着させる。 著作「旅人の唄を聞いてくれ! ~ライブハウス親父の世界84ヵ国放浪記~」(ロフトブックス)、「ライブハウス『ロフト』青春記」(講談社)、『セルロイドの海』(世界書院)など。 ----------