東北球児を支えた草の根交流 震災10年、前進続ける高校野球
未曽有の被害をもたらした東日本大震災は、被災地・東北の高校野球にも大きな影響を及ぼした。震災後、被災した球児たちを支えようと野球教室の開催など、草の根レベルでの活動が地道に続けられてきた一方で、当時の特別な思いを胸に今も野球に携わる人もいる。震災の発生から丸10年。街の復興とともに、東北の高校野球も前進を続けてきた。【安田光高、尾形有菜、岸本悠】 宮城・石巻商の新田樹主将(2年)は、2年前の夏の出来事が忘れられない。2019年8月、宮城県内で行われた「第9回東北復興野球交流試合」(毎日新聞社、日本野球連盟主催)。県内外から集まった社会人、大学、高校の各チームが練習試合を行うイベントだが、その一環で社会人野球のトップ選手による野球教室が開かれた。 当時、新田は打撃不振に悩んでいた。講師役の東京ガスの選手から「打撃は下半身から。股関節の回転を意識してスイングしてごらん」とアドバイスを受けると、目からうろこが落ちた。打球の勢いが増したのを実感した。 イベントは昨年こそ新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止されたが、震災直後の11年8月から毎年実施されてきた。発案者の一人が、震災当時は青森・光星学院(現・八戸学院光星)総監督で、現在は茨城・明秀日立の監督を務める金沢成奉さん(54)だ。 10年前の地震発生時、金沢さんは出場が決まっていたセンバツ大会に向け、チームとともにキャンプ先の沖縄から地元・青森に戻る途中で、羽田空港に向かう機内にいた。地震の影響で飛行機は関西空港へと目的地を変更。結局、再び沖縄に戻った後、地元に帰ることなくセンバツが行われる関西に入った。開催が危ぶまれる中、不安を抱えながら出場したセンバツだったが、青森に帰った後で本当の心の葛藤が待っていた。野球どころではない地元の状況に「このまま指をくわえて見ているだけでいいのか。野球人として何かできないのか」。悩みながらも知人と語り合ううちに、震災復興交流試合の構想が浮かんだ。 8月。被災地はもちろん、センバツで優勝した神奈川・東海大相模や社会人のJR東日本(東京)などの強豪チームも宮城に駆けつけ、第1回大会が開催された。その後も順風満帆だったわけではない。夏の甲子園大会と同時期に行われるため全国的な知名度は低く、野球教室の参加者を集めるのに苦労する時期もあった。現在は宮城の関係者に運営を託した金沢さんだが、「始めた頃の熱気がなくなってきているように感じる」と複雑な心境を語る。 それでも、東北の球児たちにとって不可欠なイベントに変わりはない。新田は「あのアドバイスが今に生きている。これからも続けてほしい」と振り返り、金沢さんも「私自身も10年前と同じ思いでいるか、と問われれば難しい。去年は開催できなかったが、今年は節目として、改めて関わっていきたい」と気持ちを新たにしている。 ◇ 津波被害のみならず、東京電力福島第1原発事故のため、多くの球児が県外避難を余儀なくされた福島県。震災当時、双葉翔陽2年だった新田心一郎さん(27)は、避難先の千葉・鎌ケ谷西で最後の夏を戦い抜いた。 発生時は「フリー打撃の投手をしていた」が、まともに立っていられないほどの揺れに練習は中断。すぐさま解散し自宅に戻ると、原発関連の溶接業に従事していた父に「津波が来る。原発も危ないかもしれない」と促され、すぐに内陸に避難した。原発事故により父は仕事を失い、知人を頼りに千葉県に移転した。 「僕の荷物はユニホームにグラブ、シューズ、ジャージーと野球部の物だけだった」 高校球児は本来、引き抜きなどを防ぐため転校先では1年間公式戦に出られないが、震災による特例が認められた。一度は諦めようと思った野球だったが、新田さんは新天地で懸命に練習に取り組んだ。最後の夏の千葉大会は1回戦で敗れたが、「新しい仲間と戦えた」満足感に浸った。 新田さんは現在も千葉県に住む。内装職人として経験を積み19年に独立し、今は妻と子ども2人の4人暮らし。震災後の10年は「あっという間だった」という。「当時も大変だったけど、両親ら周囲の支えで最後まで楽しく野球をやらせてもらった。あの経験が今、仕事を頑張る力にもなっている」 今も続ける草野球では、避難時に持ってきたグラブが大事な相棒だ。6000円ほどで購入したが、毎回1万円以上かけて定期的に修繕し使い続けている。「新しいグラブを買った方が安いと思うけど、これからも使い続けたい」。10年間の思いが詰まった宝物を手に、ほほ笑んだ。