「意識高い系」なぜ廃れたのか…ブームけん引役が明かす「今ではよくわかる」理由とは?
しかし、どこかの時点で堰を切ったかのように、それまで蓄積していた知や情報が繋がり、僕のアイデアとなり噴き出していった。行動に繋がっていった。 書籍の企画やプロデュースなどの結果を見て、僕が次から次へと新しいことを思いついているかのように見えるかもしれないが、あのころ徹底的に吸収していたものが大きい。 ● 「知ってる」と「知らない」の差 この先は情報に敏感な耳を作れ だから僕は、ビジネス書を読んでも意味がないとか講演会なんかに行く暇があったら仕事をしろという声を聞いたときに反論する。「実際に手を動かすほうが価値はあるが、これからの世の中がどこに向かうのかを知っているということも極めて重要だ」と。 特に、ここ最近はそれが顕著になっている。 「知っている」と「知らない」の間にとてつもなく太い川が流れているのだ。 NewsPicks Bookがどれだけ売れようが、世間の人は前田裕二も佐藤航陽も知らない。 ホリエモンと落合陽一をサンジャポの人として認知しているくらいだろう。 スマホによって世間は分断された。 昔のように家族で同じテレビ画面の前に座り、会社や学校で昨日の番組について話題にすることはなくなった。今の人はスマホという小宇宙の中で生きている。スマホは飼い主が見たいものしか差し出さない。ゲームが好きな飼い主にはゲームを、ゴシップが好きな飼い主にはゴシップを。バカはますますバカになる。 フィリピンで果物を売っている商人と日本人の間にある情報格差は、日本人の中でも同様に存在するのだ。 恵まれたこの国に生まれながら、スマホという世界中の情報を知ることができるツールを持っていながら、「意識高い系」などと他人を揶揄し、知ることすら敬遠する愚かな者になってはいけない。
スマホゲームで人生を消費するな。知っているということが、いずれ必ず武器になる。分断された世の中だからこそ、情報を浴び、知を獲得しろ。意識くらい、高く持て。 「意識高い系」はなぜ流行り、なぜ嫌われ、なぜ廃れていったのか。 「意識高い系」ムーブメントを作り出し、無責任に放置している僕は、今改めて考える必要があるのかもしれない。 そもそも僕は本質的に意識が高いわけではない。ストイックに生きてもいないし、世界を良くしようとも思ってない。 ではなぜ一時期、「意識高い系」のど真ん中にいたのか。それは「意識高い系」の構造が当時の自分にマッチしたからだ。 ● 「意識高い系」への嫌悪は 「競技化」への嫌悪だった 僕を含めた意識高い界隈の人間はすぐに物事を「競技化」しようとする特徴がある。 「競技化」とは、ゴールを決め、ルールを定め、競争させることだ。 ビジネスやプロスポーツは「競技化」されているからこそ競争が生まれ、順位がつく。部活や受験勉強に明け暮れたことがある僕は、この「競技化」の中で戦うのがとても性に合っていた。 同時に、僕を含めた「意識高い系」が嫌われるのは、「儲かるから」という合言葉であらゆるものを「競技化」しようとするからだろう。 ある日、ツイッターでエゴサーチしていたら、「サウナも箕輪にやられたか。自分の好きな界隈にだけは箕輪は来ないでほしい」と書かれていた。市川海老蔵さんとの歌舞伎プロジェクトの打ち合わせの様子がネットニュースに載ると「箕輪に絡むなと義務教育の段階で教えた方がいい」と書かれていて、さすがに笑った。