いま観ることでより深まる『天空の城ラピュタ』のテーマ 宮﨑駿監督の姿勢と試みを読み解く
宮﨑駿監督の時代に対しての考えが色濃く反映された『天空の城ラピュタ』
アニメーターとしての技術も突出していた宮﨑監督は、監督作でもアニメーションの魅力の根源である、動きの面白さを追求し続けてきた。本作での、とくに飛翔や落下する表現は、いまでも他の追随を許さないほどの動きの魅力を提供している。なかでも、空の海賊ドーラ一家の乗り物「フラップター」に、主人公のパズーが乗り込み、城を利用した軍事要塞からシータを助け出そうとする空中アクションは、久石譲の印象的な劇伴とも相まって名アクションシーンとなった。 「フラップター」とは、映画化もされた『デューン 砂の惑星』などのSF小説に登場する、羽根をはばたかせることによって飛行する乗り物「オーソニプター」を、宮﨑監督自身が実用性を意識してデザインしたという、機動性の高い小型の機体だ。このフラップターが、落下から水平飛行、上昇へと移るプロセス、そしてパズーがぶら下がってシータを空中でキャッチする流れは、何度観ても興奮する瞬間だ。 ここで活躍する、強力な「ロボット兵」は、宮﨑監督が手がけた『ルパン三世』のエピソード「さらば愛しきルパンよ」で、すでに登場したロボット「ラムダ」に酷似している。さらにこの「ラムダ」は、フライシャー・スタジオのアニメーション作品『スーパーマン』のエピソードに登場したロボットのオマージュでもある。宮﨑監督の愛するフランスのアニメーション作品『やぶにらみの暴君(のちに『王と鳥』として改作)』(1952年)が、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)の演出で盛んにオマージュされ、本作でも高所でのスリルある表現や、落とし穴の演出に応用されていると考えられるように、宮﨑作品は、こういったパロディ的な試みが多いところも楽しい部分だ。 このような見どころや背景事情の面白さを挙げていけば、延々続けられてしまう本作だが、もちろん本作は、ただ観客を興奮させ楽しませるだけの作品ではない。そこには、宮﨑監督の時代に対しての考えが色濃く反映されているのである。 宮﨑監督は本作について、「自己犠牲や献身によってのみ獲得される絆について、何故、語ることをためらうのだろう。子供達のてらいや、皮肉や諦めの皮膚の下にかくされている心へ、直に語りかけられる物語を心底つくりたい」と書いている。 また1980年代当時、宮﨑監督は多くのファンを集めていたロボットアニメに対して苦言を呈していた。当時の若者たちが、このアニメに魅力を感じた要素の一つには、いじけたり皮肉を言うような等身大の主人公のリアルな性格設定があったわけだが、宮﨑はそういったものが支持される現状に憤りを示し、あくまで理想的な精神を描くべきだと主張していたのだ。 パズーはシータと出会い、人生のなかで最も大事な存在を見出すものの、自分の力が足りないことで、一度は現実に屈しようとする。しかし、諦めからいったん脱すると、そこからはひたむきにシータを守ろうとする。その諦めない心は、やはり宮﨑監督の信奉するロシアのアニメーション映画『雪の女王』(1957年)の精神を受け継ぐものだ。そしてシータは、圧倒的な武力を手にして人間性を失ったムスカ大佐に対して、その傲慢さを否定し、謙虚な生き方を説くことになる。本作は、そんなパズーとシータの純粋な精神が貫かれているところに、深い感動がある。 さまざまな人々が独自の正義を語り、何が正しいのかが分かりづらくなっている現代……人間の価値が軽く見られ、ないがしろにされることが非難されなくなってきていたり、人を助けようとする行為や、誰かのために大きな力と戦おうとする精神が冷笑されるようなことが多くなったように感じられる。そんな混乱や人間性の欠如を考えるとき、あくまで時代を超えた普遍的で正しい精神が存在することを信じ、理想的な生き方を、アニメーション作品によって指し示そうとした宮﨑監督の試みや姿勢は、いまだからこそ重要なものとなってきているのではないだろうか。 【参照】 木原浩勝『もう一つの「バルス」』(講談社文庫)
小野寺系(k.onodera)