忘れることのできない「もうひとつの沖縄戦」凄惨な戦場を目撃した93歳の男性が今伝えたいこと
沖縄戦前年の1944年、サイパンやテニアンなど南洋群島と呼ばれる島々では、住民を巻き込んだ壮絶な地上戦が繰り広げられ、現地で暮らしていた沖縄県出身者など約1万2000人が犠牲となり、「もうひとつの沖縄戦」とも言われています。 【画像】忘れることのできない「もうひとつの沖縄戦」凄惨な戦場を目撃した93歳の男性が今伝えたいこと 上運天賢盛(かみうんてん けんせい)さんは、当時12歳で地獄のような戦場をさまよいました。
空気が変わったのは真珠湾攻撃後
サイパンやテニアンなど南洋群島と呼ばれた島々には新天地を求めて多くの沖縄県出身者が移り住み、上運天さん一家も親戚と共に農業で生計を立てていた。 1931年にサイパンで生まれた上運天賢盛さんは、戦前の島での暮らしについて「平和そのもので楽園だった」と話す。 島の空気が変わったのは、真珠湾攻撃が起きてから。 日本軍は連合軍との戦闘に備え南洋群島に部隊を配置、平和だった島は次第に物々しい雰囲気になっていった。 上運天さんが通った小学校では、日本軍の兵士が教壇に立つようになった。 上運天賢盛さん: 体操(体育)の時間の半分は海で泳ぐわけだよ。平泳ぎやいろんな泳ぎではなく最初はね、海に浮かぶことを教えてきた。後で聞いたら、(乗った)船がもし、アメリカの潜水艦にやられて沈んだら、助けが来るまでにはかなり時間がかかるから
追い詰められ自ら死を選ぶ住民
1944年6月、アメリカ軍はサイパン島に上陸、地上戦が始まった。 家族がばらばらに逃げたほうが生き残る確率が高いからと、上運天さんは同年代のいとこ2人と行動するように言われた。 上運天賢盛さん: 米軍に捕まれば、子どもは船に乗せられ沖に連れて行かれ、ボンボンと投げられ射撃の訓練にされ、死んだらサメの餌食にされる。そして、若い女性はおもちゃにされて、使われなくなったら牛馬に手足を縛って、体を八つ裂きにしてしまうと教えられていた 逃げ場のない島で戦況が悪化していくなか、追い詰められて自ら死を選ぶ住民の姿も目にした。 それはアメリカ軍の艦砲射撃が一時的に止んだわずかな時間だったという 上運天賢盛さん: 静かになったときにおばあちゃんと子ども3人が出てきて、おばあちゃんが包丁かカマか何かで子どもたちののどを掻(か)き切って、崖に突き落としていくんだよね。最後に、このおばあちゃんは自分の首を切って、自分も飛び込んでいくわけなんだ それに続いて5、6人が泣きながら断崖から身を投げた。しかし、次第に恐怖は感じなくなっていったという。 上運天賢盛さん: 怖いっていう感じはあったんだろうけども、死体を見ても何とも思わなかったね。悲しいとか怖いとか、転がっている死体を見ても、いずれ私もこうなるんだろうなとしか思わなかったからね