魚を焼くのとは違う強烈なにおい…傷ついた町をみこしが練り歩いた 「じいさんたちが僕らにつないでくれた」79年前の秋祭り
今年のノーベル平和賞に核兵器廃絶を訴え続ける「日本被団協」が選ばれ、その授賞式が10日、ノルウェー・オスロで開かれます。たった1発の爆弾で焦土と化した広島の街。そこから人々はどう立ち上がっていったのか。今回お伝えするのは、原爆投下から2ヶ月後に行われた祭りの記録です。壊滅状態をかろうじて免れた町を、みこしが練り歩きました。 【写真を見る】魚を焼くのとは違う強烈なにおい…傷ついた町をみこしが練り歩いた 「じいさんたちが僕らにつないでくれた」79年前の秋祭り 「結構若いもんがおるねえ」。10月、広島市西区の己斐で開かれた秋祭り。少し離れたところから見守るのは末田武雄さん(83)です。己斐で生まれ育った末田さんは地域で「お祭りおじさん」と呼ばれていたほど祭り好きです。 数年前に病気を患って以来、久しぶりに訪れた地域の祭り。自身も参加していた若い頃を思い出します。末田さんがまだ幼かった79年前の秋も、この地域をみこしが練り歩きました。 原爆が投下されてから2ヶ月後に撮影されたフィルムには、生き生きとした表情で俵みこしを担ぐ大人たちの姿がありました。その背景には、爆風で吹き飛ばされたのか、外壁が崩れた建物が映っています。 末田武雄さん 「想像できんのう…。その年にしちゃあ若いもんが…みな若いね。見覚えのあるような顔もないのう。あんなに若い人がおったかどうかが気になる」 当時4才だった末田さんにこの年の祭りの記憶はありません。「たしかに祭りがあった」ことは、亡くなった末田さんの兄・覚さんが20年前に証言しています。 末田覚さん(2004年取材) 「昭和20年はこの辺の秋祭りが10月19日でした。俵もみはあったんですが、その当時私の父が出征してまだ帰って来ないもんですから、町は賑やかであったがうちがたはちょっとさみしかったという思い出があります」 その後出征から戻ってきた父や覚さんの影響もあって、末田さんは物心がつく前から地元の祭りに参加してきました。 爆心地からおよそ2.5キロの己斐のまちは、かろうじて焼失を免れました。末田さんには4歳の夏の断片的な記憶が残っています。