【連載】特攻兵の「帰還」 戦後79年えひめ ④兄の記憶
堀元官一さんの親族と筆者が対面したのは2023年7月18日。官一さんの兄、豊さんの遺族が住む松山市中心部の住宅を訪れると、数人が集まっていた。 ■ 何日も泣いた なにぶん複雑な話で、最初に電話した時には怪しまれないだろうかと心配した。ただ「特攻で亡くなった堀元官一さんの詳細な情報がアメリカにあることをご存じですか」「アメリカに遺品が残っているそうです」と伝えると、応対してくれた豊さんの娘、はるひさん(64)が驚きと関心を示したような感触があった。 「ようこそおいでくださいました」。穏やかな表情で迎えてくれたのは鎌田朝子さん(88)。官一さんが遺書で「一生懸命勉強して居りますか」と気に掛けていた一番下の妹「朝子」だ。当時は9歳。その遺書の文面を口にしながら「私、勉強はしよりゃせんかったけどねえ」とほほえんだ。 鎌田朝子さん(2024年撮影) 朝子さんによると、次兄官一さんは優しくて憧れの存在だった。「運動も勉強もできて、何してもよかったけん、上の人にも好かれてねえ」。官一さんが睦月島に帰省する時、軍支給のお菓子を食べさせてくれるのが楽しみだった。 「誰が死んでも泣かんけど、官兄(かんにい)が死んだときは泣いたよ。何日も、何日も…」
愛媛新聞社